ミライ派野郎

森山未來とその周辺を果てしなく気持ち悪い感じに追いかける桐の日々散々。

「レディエント・バーミン」(7/15夜、7/31昼)@シアタートラム

 ちょっと長くなったので別エントリに分けました。ついでに長いから畳みますね。
 世田パブでBENTやってて下のトラムじゃこれで、7月の三軒茶屋は何だったんですかねこの世の地獄か。
 ドツボにはまって色々こじらせた挙句もう触らないことにした、というめんどくさいはまり方をした「マーキュリー・ファー」のフィリップ・リドリーの新作が、白井晃演出、高橋一生主演という完璧な布陣で戻って来ちゃった「レディエント・バーミン」、今回は軽妙なブラックコメディ仕立てとのことで…そんなリドリーのコメディなんて笑えないに決まってるじゃないか逆に恐ろしいわと戦々恐々としながら観に行きました。ええ、案の定…欠片も笑えないコメディだった…ただただお腹の底が冷えるやつだった…素直に怖い状況を怖く描いてくれた「マーキュリー~」は親切設計だったよ…怖いものを怖いと感じさせてもらえずに笑わされるのって、ものすごく怖いことだよ…。

 若い夫婦が自分たちが手に入れた「夢の家」について語る講演会みたいなもの、の聴衆として観客が座る形式なので、所謂演劇とはちょっと違うのかもしれない。夫婦によって語られる話、彼らの身に起こり、彼らが為してきた出来事は、「子供の為」という大義名分があれど身の毛もよだつおぞましい行為で、もちろんふたりもそれを良しと思っているわけではないのだけれど、人の欲と大義名分は時として倫理観を遠くに追いやるものなのだな…という話なのだけど、怖いのはそれに笑いをまぶして投げてこられること、「あなただってそうするでしょ?」と無邪気に同意を求められることで。そう云われると即座に断固として否定はできなくなってしまう自分の弱さを否応なく引きずり出されるのが本当に怖い。あと、心底嫌悪しながらついつい笑わされてしまう、感情と表情の相違というか齟齬がとても気持ち悪い感覚でした…きっつかった…。また、高橋一生吉高由里子演ずる若い夫婦が…残念なことに非常にチャーミングでキュートで…思わずそうよねってなりかけるところでやっぱり無理!とはねつけるようなことを、観ている間中ずっと自分の胸の内で繰り返していて、それもつらかった(笑)。せめて何というか、すっごくイヤなふたりだったらまだ…楽なのに…。あと個人的に、すごく好きなU2の「Vertigo」が劇中でそんな…!ってタイミングで使われたり、うわぁ…って感じで使われたり(笑)したのも何というかショックを強めたというか…どうやら台本で指定された曲ではないようで、白井さんチョイスだったらしいんだけど、リドリー/白井コンビは一体いくつトラウマ曲をわたしに植え付けてくれるんですかね…くらーいむえーぶりまうんてーん…。またこの選曲が、U2のボノ氏は慈善事業や社会事業に力を入れていることでも有名ですが一方でそれが偽善的だとか金持ちの道楽とか批判も多くて、何というか…皮肉な…と(勝手に)感じてしまったりして(笑)。しかしぴったりとも思えてしまう…つらい。
 ぱっと観て一番最初に感じたのは、ジェントリフィケーションとそれに伴う問題をものすっごく極端に、でも要するにそういうことだよねって感じに描いているなぁということで。でもそれはあくまで作品の外郭でしかなくて、内包しているメッセージというか本題は、「マーキュリー・ファー」ととても重なることなんだよね。あの地獄のパーティ(笑)*1で、ラリーが云う「問題について悩むよりそれぞれの問題の色や模様を愉しむべき」ってセリフはとても怖いし、とてもリドリー的な言い回し*2だし、そうなったら人間としておしまいだと思うやつだし、日本版メインビジュアルの蛾も思い出す象徴的なセリフだし、ラリー自身が「夢の家」の光に呼ばれて群がる蛾の1匹とも云えるし、自分がそっち側になり得ることに全く無自覚でぞっとする。無自覚の残酷さというか、悪意のない無邪気な、いっそ善良な殺意というか。「マーキュリー・ファー」は「自分が生き残る為に、他者を犠牲にすることは仕方ないのか?」ってところをギリギリの状況で探る話だったけれど、「レディエント・バーミン」は、「自分が<ちょっとだけ快適に>生きる為に、<役に立たない>他者を犠牲にすることは仕方ないよね?」って、よりフランクに、怖い方向に一歩踏み出していて、ある意味「マーキュリー・ファー」よりずっと怖い。役に立たないかどうか、ちょっとだけかどうか、仕方ないかどうかは本人たちの主観でしかなくて、それは本来誰にも決められないことで、その重さ、誰かを虫のように犠牲にして生き残った自分たちが、誰かが生き残る為の虫のような犠牲にされる事実を極限状態で背負わされてもがき苦しんでいた「マーキュリー・ファー」の登場人物たちの、魂の底からの慟哭を、本当に軽やかにはね飛ばし、「だって、あなただってそうするでしょ?」と無垢な目でまっすぐにこちらを見てくる。「マーキュリー・ファー」に震え涙したこちら側を、一皮剥けば同じなのを知っているよ、とにこやかに、感じ良く、フレンドリーに手を握り話しかけてくる。過度とも思える客席いじりも、天真爛漫な若い夫婦のチャーミングさも、同意を得るための戦略だったと後で気づく、その巧妙さとめちゃくちゃ上手いこと填められてしまっている自分にも恐怖を感じる。さらにその計画を主導しているのが「政府」っていうのも…リドリー的過ぎて怖い…。
 特に巧妙さというか、「政府ぐるみの策略」を感じるのが、最初の「リフォーム」に至る前に、夫婦ふたりのスマホの電波がなくなるところね。あれ完全に…止められてるよな…さすがだよな…仮に通じたとしても警察とか絶対来ないやつでしょ知ってる…。
 あと、「リフォーマー」ケイの言動がどうにも理解できなくて、いくら親切にしてもらって仲良くなったからって、知り合ったばかりの夫婦の子供の為に、なんてよくわからない理由で、喜んで自分の命差し出すかなぁどんなにいいことがない人生で、生まれて初めて誰かの役に立つからって、と腑に落ちないものを抱えていたのだけど。脚本に「ミス・ディーがケイとして現れる」って書かれてると聞いて最初は、ケイという女性自体がそもそもミス・ディーの別の姿みたいなもので、狂言じゃないけど、なんかそういう仕組まれたものだったのか…!と恐ろしくなったのだけどそれは勘違いで。そもそもこのお芝居は、オリーとジルとミス・ディーの3人による講演会みたいな形をとっていて、舞台上で演じられるのはすべて、二人が「おともだち」に向かって実演してくれる二人の話の中身であって、決して過去に二人に起きた「事実」ではない、んだよね。ってことを演劇マジックでついつい忘れてしまって、 時間軸を行ったり来たりする気になってしまうんだけど、そうじゃなくて、常に「今」で、「今」の二人が過去の二人を演じて見せてくれてる状態*3。てことは、過去の事実のように語られてる事象は実は全て、彼らの口から語られているだけの、客観的事実ではない事象であるとも云えてしまうわけで。疑いだしたら全部疑えてしまうけどいくら何でもそこまでとは思わないけど、ケイに関してはもしかしたら、ミス・ディーの過剰な演出、二人の罪悪感を消してこの先のリフォームを躊躇わせない為の、都合の良い記憶の上書き的なことが行われているんじゃないか、と。 あんな、涙流してあなた達の役に立てるなら本望だから殺して、なんてホームレスでも云わないと思うんだ…だからケイのあの一場がすごく嘘くさく感じて違和感あったんだ…。少しでも二人の罪悪感を和らげて、ほら、あなたたちは良いことをしているのよ、と言い聞かせるようなミス・ディーの、もしくはその後ろの「政府」の、演出なんじゃないかと思ってしまった。都合の悪いことや嫌な記憶は簡単に塗り替えられるから。
 …って考えててふと、都合の良い演出どころじゃなく、もしかしたら実際のケイは泣いて命乞いしたかもしれない、どうか殺さないで、わたしたち友達でしょ、誰にも云わないから、お願いだから逃がして、と跪いて懇願したかもしれない、そんな可能性すらあることに気づいてしまってとても恐ろしくなりました。だって本人たちしか真実は知らないんだもの。どうとでも云えるんだもの。
 そしてそれをそう(良かったことのように)取り繕う理由は、我々観客=おともだちに、二人に対する嫌悪感を抱かせないようにして、おともだちが契約を躊躇わないようにし向ける為、この計画を拡大するのに必要な契約を取る為、なので最初からこの芝居には「観客」はいなくて、その場にいる全員がミス・ディーと政府の計画のターゲットなのだ、という、全然芝居じゃないよこれ! 楽しく作ってるはずだよそれすらも計画のうちだよ! ノリノリのロックもパーティの早変わりもジルの客いじりも全部、二人に対するおともだちの心象を良くして二人を悪人だと感じさせない為の周到な計画なんだよ…と改めてぞっとするのでありました。ノリノリでVertigoに合わせて手拍子するトラムの客席で、ものすっごくひんやりとしたものを感じて固まってしまったのも仕方ない…。
 Vertgoと云えば、白井さんチョイスと訊いてホッとしたような逆にショックなような何とも云えない気持ちで劇中に何度も登場するのを聴いていたのだけど、作品中のいたるところにキリスト教的モチーフが散りばめられているのもなかなか…リドリーさん皮肉だなって…。神父とか教会のパーティとか聖書とか天使とかハレルヤとか奇跡とか地獄とか、あとVertigoの元々の歌詞*4も、抽象的でわかりにくいけど聖書モチーフだし。彼らの善良さを強調すればするだけ非道さが浮き上がって見える仕様、さすがリドリー作品だなぁと思います…そこが良いのだけど。その辺、日本人である我々にはなかなかピンと来ないけど、キリスト教が一般的な向こうの感覚だと余計に怖いというか、ヤバい感じあるんじゃないかなぁと想像する…。
 ジルが幻覚で見る地獄の様子が、夫婦がはしゃいで黄色いランボルギーニで見に行った夜景と同じ、オレンジ色の燃えるような火に焼かれる世界で、ああ、この世はすでに地獄のただ中だったのだな、と思うと同時に、オリーとジル以外にもきっと、そこら中で同じ「夢の家」が建って、汚いモノはぴかぴかの車やキッチンに変容し、この世は光に溢れていて、その光に吸い寄せられてスラムは洗練された街に変わり、その様はあたかも誘蛾灯に群がる虫たちのようなのだろうな…と日本版ポスタービジュアルを思い出すのでした。そして先陣きって入植(?)して成功を収めたふたりが結局、「この街にそぐわない」って追い出される入れ子構造もとてもリドリー的で、ああ…とため息が出てしまうのです…。また次の引っ越し先でリフォーム三昧ね…。
 とても盛り上がって楽しげに終わるラストで、唇噛みしめて涙垂らしながらジルをにらみつけていたのですが(笑)、あの感情は何なんだろうって思っていたけどたぶん、憤りだ。あなたと一緒にしないで。わたしをあなたと同じだと勝手に思わないで。そんなことを思いながら、そこで腑煮える思いをするのは、自分の中に彼らと同じ部分があることをどうしたって否定できないから、だろうなと。「マーキュリー・ファー」の恐怖は、深くて暗い穴の縁に足半分だけはみ出して立たされている感じ、風が吹いたり咳込んだりしたらすぐに落ちるところに置かれる恐怖、って感じだったけど、「レディエント~」の恐怖は、穴の縁に座って虚空に足をぶらぶらさせて楽しくおしゃべりしていると、その足をオリーとジルに掴まれて引っぱられる怖さ、だなぁ。すぐ後ろにミス・ディーが立って笑顔でこちらを見下ろしてる恐怖。本当に怖くて気持ち悪くて、でもだからこそ、これはやっぱり好きな作品なのでした。チケット激戦になってたし、放送とかないかなー!

*1:たぶん演者にとってが一番地獄…

*2:と色彩感覚

*3:なので、途中で入ってきたお客さんにジルが「あら遅かったじゃない、早く座って」とか話しかけてもメタじゃない

*4:劇中で歌うのは替え歌になってる