ミライ派野郎

森山未來とその周辺を果てしなく気持ち悪い感じに追いかける桐の日々散々。

24年

 追悼の行事に、今年が最後になるものが増えている、というニュースを見た。実行委員や参加者の高齢化に加え、未明という開催時刻の身体的負担も主な理由とのことで、それだけの時間が経ったという事実を改めて感じさせられるニュースだった。24年。いつの間に、もう、という感覚がわたしには強いけれど、まだ、と感じる人ももちろんいるだろう。し、その「まだ」が「もう」になることは多分、ないのだろうとも思う。

 

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 忘れてはいけない、と云えなかった2008年のことを、それが可視化された2009年のことを(そして「やっぱり忘れてはいけないんじゃないの?と思った2009年のことも)、今日とても思い出すのは、こちらを読んだからだろう。浅生鴨さん、初代NHK_PRの中の人でもある神戸出身の作家さん。

 

note.mu


 風化、という言葉にはあまり良い印象を持ちにくいけれど、馴染んで薄まっていつもそこにあることが当たり前になる、意識せずとも常にある、状態になることなら、それはひとつの在り方なんだと思う。もちろん、ずっと忘れずに、常に胸の内に留めて、抱き続けて、想い続けることだって大切な在り方だし、何年経とうが、またこの先何年経とうが、風化することはない、するはずもないしさせない、その想いも本物だろう。どっちが正しいとか間違っているとか、良いとか悪いとかではなくて、「それがその人の人生*1」なのだから。この日のその時間に特別なことをしようがしまいが、それぞれの「在り方」でそれが在るのなら、それでいいんだろう。忘却と風化はきっと違う、いや、それは「風化」ともまた違う現象なんだろう。違っていてほしい。それを表すちょうど良い言葉を見つけられないけれど、そうやって心に、身体に、土地に、空気に、染み込んでいってほしい。

 そうして染み込んでいったものが、たまに、金魚になって現れたりすること。それを目にして、ああ、ここにまだあるんだね、って思うこと。24年を経て、わたしにとってそういうものになっています。今。

*1:NHK「未来は今」で古筝奏者のウーファンさんが未來さんにかけたことば