ミライ派野郎

森山未來とその周辺を果てしなく気持ち悪い感じに追いかける桐の日々散々。

葛河思潮社第一回公演「浮標」@吉祥寺シアター(2/5夜)

 あっちゃ行きこっちゃ行きした長い土曜日の終着点はここでした。吉祥寺シアター、ガジラで来たのが前回かな。好きな劇場です。
 休憩を2回挟んで上演時間4時間、と聞いて、少々おっかなびっくりな気分だったんですが、でも考えてみたら松本メタマクだって4時間近かったもんねー。3時間半くらいなら普通だし、そこまで身構える必要もなかったなぁ(笑)。実際、観ている間は、長いという感覚は全くありませんでした。むしろ休憩2回で分断されるので、1幕ごとは短い気分。もちろん、終わった後の重量感はずっしりでしたが*1、実感としては全然長くなかったです。むしろ、あのラストに至るまでには4時間じゃ短い、そんな気持ちにさえなった。
 「浮標(ぶい)」は三好十郎が1940年頃に書いた戯曲だそうです。あ、開演前に前説…というか、ご挨拶がありました。すごい身構えていたから、和やかなご挨拶で変な力抜けて良かった(笑)。で、そのご挨拶で、長塚さんから「浮標」の背景と、あと上演時間が4時間あるので…と説明がありました。もし、そんな長いの最後まで観てたら帰れない!とか、ありましたら、受付にご相談頂ければ、何か良い方法がご案内できるかも、なんて心遣いのお言葉でした。大丈夫です覚悟はできています(笑)。
 時は日中戦争の頃、場所は千葉の海近く、派閥を嫌って画壇を追われた画家・久我は、肺を病んだ妻・美緒と世話係の耳の遠い老女と暮らしている。久我の必死の看病空しく美緒の病状は悪化するばかり、絵本の挿絵描きの仕事を回してもらっているが生活は苦しく、借金も増える一方。そんな久我たちの元を次々と訪れる友人、親戚、医者。娘の身体を心の底から心配しながら、遺産分配の話に余念のない美緒の母、妻を置いて出征していく親友、幼く無邪気な美緒の弟。美緒の回復を信じながらも、一方で良くなることはないと理解し、それを否定しようともがく久我。画壇への復帰の誘いと、画家としての矜持。どん詰まりのような状況で、それでも必死に生きる様を丁寧な会話で綴る対話劇を、長塚演出はアレンジを加えることなく直球勝負な演出で魅せてくれました。かつての阿佐スパのようなショッキングな演出は影を潜め、シンプルかつ意味深くも取れる洗練されたセットは転換もほぼ皆無で、本当に純化された、ソリッドな「演劇」を直球でガツンとぶつけられた感じ。今回の演出も、ちょっと「タンゴ」を彷彿とさせるところがあって、「タンゴ」を経てこの形になった、と思うと、ナルホドという気がします(笑)。少し耳に硬い台詞は、三好十郎の戯曲そのままなのだろうと思われるのですが、直球勝負に相応しい力というか情念を持っていて、役者の声と呼吸を伴いそれが発されると、あのこぢんまりとした劇空間の中で生々しいほどにその情念が立ち込めるというか立ち昇るというか…それは声の大小には関係なくて、久我の叫びも、美緒の掠れた囁き声も等しく生々しくて。生きることの生々しさ、と云い換えることができるかもしれない。誰も悪人ではなく、でも誰もがどこかに醜悪さを持っていて、だからこそ生々しいのね。
 以下、セットの詳細に触れるので畳みます。ネタバレ気になさる方はお気をつけ下さい。

 舞台上には大きな砂場が設えられていて、一段下がった四角いスペースは白い砂で満たされている。砂場をぐるりと囲むように廊下状の足場が組まれ、さらに上下両サイドにはそれぞれ5脚ほどの黒い椅子が等間隔に並べられている。出演者は最初、黒衣でその椅子に座っているが、自分の出番が近づくとそれぞれ一旦消え、やがて衣装*2に着替えて登場する。舞台というか、演じる場そのものは、砂場とそれを囲む廊下部分に限られていて、椅子がある部分は別世界、なんだけど、椅子に座っている役者たちがコロス的な役割も担ったりする。この、いないんだけどいる、いるけどいない、第三者的な視点で舞台を見下ろしているけど関わりもする、感じが…「タンゴ」の長塚さんポジションの発展形なのかな、と。「タンゴ」の時、長塚さんの存在が『芝居であることを再認識させる』とか『演劇空間に没頭することを阻止される』みたいな評、もしくは『気になって仕方ない!』という感想などを目にしましたが、わたしそこは全然引っかからなかったのね。初回の冒頭はもちろんびっくりしたけど、ごくすんなりと「いていないひと」で納得できていた。だからなのか別にそんなことでもないのかわかりませんが、今回の両サイド椅子も全然引っかからなかったです。意図は…何だったんだろうな。袖に引っ込むのではなく、そこに居続ける意味。わからない。わからないけど、何となく、あの視線*3がある所為で、砂場と廊下がある種の世界の縮図、みたいに見えた、気はします。久我という一人の人間を描きつつ、人間全体に対する普遍性も感じさせる、ような…何となく。一緒に神の視点から「人間」を観ているような。まぁ印象です印象。
 で、物語の舞台となる砂なのですよ。四角い砂場が、時に座敷になり、時に日の当たる庭先になり、そして千葉の海岸になる。座敷のセットが出てくることもなく、防風林の松が出てくることもなく、全てその四角い砂場だけ、その中で演じられるのです。この「砂」に、わたくし個人的にいろんなイメージを重ねてしまって…砂浜の砂は珊瑚や貝の死骸が降り積もったもの、とか、落ちる砂時計の砂のイメージ=時間の不可逆性、とか…。それで、劇中にあった「ひとは一刻一刻死に近づいている」とか、「地面はかつて死んだものの死骸で埋め尽くされている」とか、「死の上に生はうまれる」とか、あと「赤さんはみんな、死んだ誰かの生まれ変わり」とか、そういうものが全て、その「砂」に凝縮されているように思えてしまって。万葉集を詠んだ万葉人たちを久我は素晴らしいとたたえるけど、久我の「先祖」である万葉人たちも地面を埋め尽くす死骸の中にあるわけで…と思うと、冒頭最初のシーンで、砂の中から久我が本*4を探し出し手にするのは、降り積もった死の堆積の中からの、ある意味死者の声のような…死の上に成り立つ生、を冒頭から象徴していたように見えてしまうのです。
 また、死の上にこそ成り立つ生*5、なんて見方をしてしまうと、そういえば登場人物はみんな、砂の中を裸足であったり靴であったり草履であったりさまざまだけど、砂(=死)を踏みしめて立って(=生きて)いたよなぁ、と。で、美緒だけは唯一、劇中一度も砂に触れてない。寝椅子にいるか、移動する時は久我が抱きかかえて移動してたから、美緒は一度も足を砂に付けていないのね。それが即ち、生からの逸脱、とか、すでに生と死の狭間にいる存在、そんなことの象徴に思えて…ふおお、となりました。勝手に。
 あと、死の先には何もない、天も神もない、ベタ一面の真っ暗闇だ、と久我は云っていたけど、それは死者にとっての死だよなぁと。生者にとっての死は、堆積される砂なのではないかなぁ。なので、ラスト、美緒が死んで一度暗転した後の久我が、万葉集を片手に立ち尽くす、本のページの間から砂がさらさらと流れ落ちる、のは、砂が美緒なのではないかなぁとぼんやり思いました。死んで、万葉人の側に逝ってしまった美緒が、久我の手から地の砂へ落ちていく。残された生きるものは、足元の砂を踏みしめて立つしかない。死ってそういうものなのかもしれないな、などと。以上、砂から広げた妄想でした。
 セットもシンプルなら音楽もほとんどなくて、波の音、遠雷の音、風鈴、鳥の声、蝉の声、そんなもので気候風土が感じられる芝居でした。蝉の声の中にキロリンと鳴る風鈴の音で、そよ風が吹いたのが感じられる。空気が動いたのがわかる。そんなのも素敵だったなぁ。おばさんも、美緒の母の峰村さんも、妹の江口のり子さんもすごい存在感だったし、もちろん長塚さんは飄々としていてインテリゲンチアででも人間的で素敵なお医者様だった…。個人的には、そんな比企先生の妹さんだけが、ちょっと、声とか立ち居振る舞いが現代というかイマドキな感じで…ん?となってしまったかな。オペラをやるとかで「帰れソレントへ」を歌うシーンがあったのですが、うん、とてもオペラは無理よね(笑)、と…金持ちの道楽的にはそのくらいでいいのかな、いいのかもな。
 ところで、芝居を観ながら、観ている最中に唐突に「わたしこの話知ってる、ていうかこの芝居観たことある!」とすごく思ったのですが、あの、尾崎が久我に画壇に戻らないかみたいな話をするところで。水谷先生がどうとか毛利がどうとか云ってるところで唐突に。で、多分テレビで観たんだ…まではわかったんだけど、その先どうなるかも、その時誰が演じていたのかも、全っっ然思い出せなくて、不思議な気分でした(笑)。思い出せないんだけど、観てると「ああこの台詞聞いたことある」「このシーン知ってる」ってずーっとデジャヴュみたいな変な感じ。で、結局土曜日には思い出せなかったんだけど、すっかり思い出しました。多分芸術劇場か、もしくはミッドナイトステージ館で、新国立劇場でやった「浮標」を見たんですわたし。久我が生瀬さんで、美緒は七瀬なつみさんだったの。ああ、生瀬さんだったから観てたのかなーなんて思っていたのですが、最後まで思い出さなかったけど調べてやっとわかった事実。
 赤井がゆっきーだった!!!
 …だから観てたんだね…やっと理解できた…ていうかこのポンコツ脳みそを何とかしてあげて…。

*1:特に腰と足のむくみで…

*2:これは黒くない、それぞれ役に合った浴衣だったりワンピースだったり軍服だったり

*3:椅子からの

*4:あれが万葉集だった、んですよね?

*5:生まれ変わりも含めて