ミライ派野郎

森山未來とその周辺を果てしなく気持ち悪い感じに追いかける桐の日々散々。

なんごう小さな芸術祭 中屋敷法仁演劇公演「くじらむら」@八戸市南郷文化ホール(10/28昼)

 日曜日は日帰りでぴゅっと青森は八戸市、南郷という集落で開催中の「なんごう小さな芸術祭」で上演された「くじらむら」という演劇を観に行きました。青森、日帰りできちゃうんだよすごいねぇ…。

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 中屋敷さんの新作舞台だし玉置玲央くん出演と聞いたら行かないわけにはいかなくなってしまったわけですが、だって最近玲央くんなかなか柿公演にも出られなくなっちゃってるし中屋敷作品での玲央くん観たいじゃん…良いに決まってるじゃん…しかも新作だよ…? でも流石に先々週仙台行ってるし一泊はできない…ので弾丸日帰り。ありがとう東北新幹線。仙台以北なかなか行かないし多分青森は初上陸なんじゃないかなー覚えてないだけかなー。

 南郷という所は、八戸から車で1時間弱ほど山側に引っ込んだ、のどかな農村地区で、八戸っていうとイメージ的にイコール漁村! 港!って感じだけど、そうではないところ、でした。ないのだけれど、何故か山側の農村地区なのに、クジラにまつわるものが多く残されていて、というのは、この旧南郷村からは捕鯨船に出稼ぎで乗った男性が多かったそうで。多い時には700人以上もの村の若い衆が、家族を養う為に遠洋漁業へ従事して、そしてそのおかげで村は大層潤い、「クジラの村」と呼ばれたとか。そんな捕鯨の村の「資料には残らない」話を集め、それをもとに中屋敷さんが作り上げた物語が「くじらむら」です。とても…暖かくて、悲しくて、慈愛に満ちていて、優しくて残酷で、美しいお話でした。

 かつて「クジラの村」と呼ばれた南郷村の歴史を語るおじいさんの口上?から始まり、登場するのは村人…ではなくクジラたち。マッコウクジラの家族の話やその生態が、中屋敷演出らしいリズミカルで楽しくて、そしてぞくっとする世界観で舞台上に立ち現われました。

 ネタバレするので、あと長いので一応畳みます。

 

 身重の恋女房を人間の捕鯨船に捕らえられたオスのマッコウクジラは、オスのシャチの導きで、自身の持つ超音波の能力と引き換えに、海の魔女の魔法で人間の姿へと変えてもらう。同じく秘密の取引を交わして人間の姿となったシャチと共に捕鯨船へと乗り込み、恋女房の「最期を見届けに」いくマッコウ。シャチは何度も人間になって捕鯨船に潜り込んでいるようで、人間の友達が助けてくれたり、人間だと思っていた乗組員が実は海の生き物が魔法で人間に姿を変えたものだったり、いろいろ。やがて、解体される恋女房の姿を見届けたマッコウは海に戻ろうとするが、身重だった恋女房の腹から取り出された子供の行方が気になり、船に留まる事にする。子供を探すマッコウとシャチは、南郷村から来た男がそれを隠し持っていることを突き止める。捨てるはずのクジラの胎児を、そっと布にくるみ、捨てるのは忍びないと大事に持っている男に、マッコウはそのまま持っていてほしいと伝える。ネスカフェの空き瓶にホルマリンで封じ込まれた子供と共に、南郷村に帰る男に、マッコウとシャチもついていく。そこで見届けたのは、人間の家族の姿、村という共同体の姿、クジラが村にもたらすものの大きさ。死んだ子供が大切に村へ受け入れられるのを目にして、海に戻ろうとするマッコウに、シャチはあることを告げる。それは、海の魔女とシャチが交わした秘密の取引の中身で、海に戻ったらシャチはマッコウ以外の家族をメスも子供も全て殺す、というものだった。助けてほしいと泣いて懇願するマッコウ、でもシャチは、約束を守らないと泡となって消えてしまう、と取り合わない。海に戻ればシャチとクジラ、捕食者と被捕食者。だけど俺はお前を喰わない、代わりにお前の家族を、メスも子供も全部殺す。食べる為じゃない、ただ殺す為に殺す。冷たく笑ってマッコウに告げ、突き放すシャチ。泣き崩れ叫ぶマッコウ、だがふと気がつくとそこは海の底で、メスたちがピピピピピ!と超音波で鳴き交わし、オスを見つけて「イカを捕りに行ったのに遅かったじゃない」と彼を囲む。何事もない、元の日常へ、捕鯨船の記憶も人間の姿になった記憶も薄れ、マッコウは自分の群へと戻っていく。そして、海の魔女を訪ねたシャチは、マッコウの家族を殺すという約束を反故にした代償として、一生人間の姿のままで生きることを告げられる…。

 というざっくりあらすじで、シャチを玉置玲央くんが、海の魔女を青年団の本田けいさんが、あとはオーディションで選ばれた八戸の演劇人とそうでない人、が演じました。溌剌とした演劇部らしい学生さんから品の良いおばあちゃまや朴訥な語りがあたたかい男性、小さくて可愛らしい男の子まで、老若男女、決して全員が素晴らしく「上手い」わけではないけれど、とても伝わる作品だったなぁ。マッコウ役の長谷川華さん、つるんとしたおでこが綺麗であそこから超音波出てる感とてもあって素敵でした。可愛いけどでもどこかユニセックス感漂って、オス役でも違和感ない雰囲気も良かった!

 怜央くんは、とても水を得たシャチだった。ひよりさんポイントな赤メッシュの色が少し落ちてオレンジっぽくなっていて、そのポイントがシャチの顔の白抜き模様みたいだった。海のヒエラルキーの頂点に立つ冷酷さと残虐性、サブロウと名乗り人に混ざってマッコウと行動を共にするチャーミングさ、マッコウを裏切るそぶりを見せておきながらできない優しさ、自己犠牲、振り幅の本当に大きい役を、玲央くんの持ついろんな魅力を最大限に発揮しながら、舞台上を自在に泳いで跳ねていました。楽しそうだった! そして美しかった…可愛くて恐ろしくてキュートで綺麗だった。ラスト、一生人間の姿でいることを海の魔女に告げられた時の虚脱したような何とも云えない表情が壮絶だった…あんなに表情豊かだった分落差が…。マッコウに凄むところも凄かったなぁゾクゾクした。

 一番印象に残っているのは、マッコウが恋女房を「助ける」為ではなく、「最期を見届ける」為に捕鯨船に乗り込む、という動機です。海の魔女に頼みに行く時点で、最期を見届けたいんです、って云っていて、えっ奪還じゃないの!?って思った…銛打ち込まれて助からないのはわかってるんだけど…それでせめて、なのかな…。勝手な印象なのだけど、野生動物の諦念というか、弱肉強食のヒエラルキーには逆らえないことを自然に受け入れている風に感じて、何となく衝撃的でした。そうか…そこは受け入れるんだ…。捕鯨船に乗り込んで作業を手伝ったりもするんだけど、そこでもマッコウは人間に対する憤りとか、恨みとか、復讐心とかを一切抱くことはなくて、自分の子供の遺体を持ち帰る人間に怒りを露わにすることもなくて…ただ、深く悲しみはするけれど、そこに理不尽であるとか、酷いとか、どうしてとか、そういう、(人間なら)普通に抱くであろう感情は出てこない。そこがとても…ヒトと動物の違い、みたいなものを感じて強く心に残っています。でもダイオウイカは復讐みたいに銛を撃つんだよな(笑)。*1 *2

 捕鯨の可否とか、イルカ漁とか、国際的な問題にもなっていてセンシティブな部分ではあるのだけど、少なくとも作品で描かれる世界では、あくまで自然界の捕食・被捕食に近い感覚で、捕鯨に携わる人間たちもクジラに敬意をもっているように感じられたし、クジラをとてもありがたいものとして、捨てるところなくすべてを有効に使うし、村がそれで助かるし、大切にされていたことが伝わるようにできていて良かったです。わたし個人的には、鯨食は文化のひとつだと思うし、クジラは頭がいいから殺すのは可哀想、みたいな考え方はナンセンスだなぁと思うので、乱獲しなければアリだとぼんやり思う方です。が、イルカ漁の現場はちょっとしんどいな…とか、イルカは可哀想な気がしてしまう辺りは我ながらブレブレだなーと思います。可哀想だから、って辺りがもう感情論でダメだよな。いのちをいただく、という部分では牛も豚も鶏も羊もクジラもイルカも変わらないというか、変わりがあってはいけない、とは思う。のだけど。むずかしい。

 あと、シャチは自分を他のシャチと区別するために、自分に「サブロウ」と名付けて名乗るのだけど、劇中で彼をその名で呼ぶ人はいなかった…ような気がするのね。「名前」を持つのは劇中で彼のみで、マッコウクジラも人間も、名前は出てこない。「サブロウ」だけが「名前」を名乗り、でも誰からも呼ばれない世界…そんな彼が人間になる…ってちょっと意味を考えてしまうなぁ結論には至らないけど。「サブロウ」という名前も、柿喰う客の「にんぎょひめ」というお芝居が3姉妹の末っ子のにんぎょひめが陸に上がって人間の姿になるお話で、シャチも3兄弟の末っ子だったのかな、とか…末っ子は海の魔女に人の形にしてもらって地上に上がるものなのかな、とか…いろいろいらん足を延ばして考えてしまう…。

 終演後にはアフタートークがありまして、中屋敷さんと一橋大学大学院の赤嶺淳教授が登壇されました。赤嶺先生が、主人公をマッコウクジラにしたのは素晴らしい!と絶賛されていて面白かった(笑)。マッコウクジラは家族単位の群れを形成して、それが「村」と繋がっていくのとか、マッコウクジラの狩りの方法が所謂出稼ぎと似ているとか、マッコウクジラの生態を生かした物語になっているんですねーなるほど。あと、先生曰く、看板のクジラの絵を見た瞬間に「マッコウクジラ!」ってなったそうで、そうなんだ…あれマッコウクジラなんだ…わかるひとが見れば一発なんだ…なるほどおでこか…(今調べてみた)。あと、ホールに隣接する図書館で「くじらむら」関連の展示コーナーができていて、そこに瓶詰のくじらの赤ちゃんもあるとのことで…中屋敷さんが現地の方にいろいろお話を聞いて贋集したお話をベースに今回の作品が作られている、とは聞いていたし、「ネスカフェの空き瓶」なんて具体的な名前が出ていたから、本当にあったんだろうなとは思っていたけど、現存したんですね…。時間なくて図書館は見られなかったけどちょっと見たかった…。

 客席に、実際に捕鯨船に乗っていた方が何名もいらして、質疑じゃないけど感想を伺ったりしたのですが、皆さんがとても懐かしそうに、嬉しそうに、当時の思い出やお芝居の感想を口にするのがとても素敵な場でした。何かね、これは捕鯨にも南郷村にも接点なく生きてきて今日ぽっと客席に座っただけだからそう思うんだろうけど、舞台上で虚構として観ていた世界が、現実世界と重なる瞬間に立ち会っているようで、それがすごい奇跡のように思えて、鳥肌が立ってしまった。でも南郷のお父さんたちには、虚構だけど懐かしい現実の思い出なんだな。獲っていたクジラの種類とか、年代とか、担当していた作業場所とか、記憶の蓋が開いて溢れてくるみたいに話すお父さんたちがキラキラしていて、誇らしげで、涙が出てしまった…。そして舞台上の赤嶺先生がすかさずメモ帳を取り出してお父さんたちのお話を書き留めていたのも面白かったです(笑)。研究者の目になった!

 とても素敵な作品だったし、演劇作品としても面白くて良かったので、今回の上演だけで終わりになってしまうのはもったいない…という気もとてもするのだけど、でもこの作品は、南郷という場所に来て、ここで上演されるのをこの地で観ることにこそ、意味が生まれるものだとも思う。アフタートーク中屋敷さんと赤嶺先生も仰っていたけど、資料として残されるものには載っていない、数字やグラフにはならない、資料化されると零れ落ちてしまう物語たちをすくい上げ伝えていきたい、という想い、それを伝えるにはやっぱり、場所の力って大きいと思います。これは未來さんが地方で作って地方で上演する作品に多く携わってきて、それをいろいろ観てきたのもあって強く感じる…その場所の、土地や、空気や、気候や、歴史や、そういうものが揃ってこその作品ってあるから。なので、個人的には、南郷でこの先も大切に演じられていったらいいなぁ、そこに遠い場所からでも、観に来る人が増えたらいいなぁ、なんて思うのでした。

 せっかくの初青森、初八戸だったのだけど弾丸だし、八戸~南郷はシャトルバスを用意して下さったのをありがたく使わせて頂いて、その時間の都合もあって、観光的なことが何もできなかったのがちょっと残念でした。十和田現代美術館行きたかった~! さすがに日帰りで南郷でお芝居観たらそれだけで終わるよね仕方ない…。せめてもの、と八戸駅イカイクラの豪華なTKGとせんべい汁のセットを食べて、帰りの新幹線内でいか飯(とシンカンセンスゴイカタイアイス)を食べて、お土産にせんべい汁セットとかを買って、帰ってきました。全部美味しかった! でももっとゆっくりしたかった…!

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 南郷の捕鯨に関するお話とかちょっと。あと「くじらむら」の記事も!

www.nangoartproject.jp

hacchi.jp

hachinohe.keizai.biz

*1:まぁでも、ここでクジラの恨みを描くわけにもいかないよなぁ実際に捕鯨に携わった方がたくさんいらっしゃる土地なわけだし…捕鯨や鯨食を否定する方向には行かない(行けない)よね。配慮も理解…

*2:でも配慮を配慮と思わせない、気づかせない物語性が巧いなぁと