ミライ派野郎

森山未來とその周辺を果てしなく気持ち悪い感じに追いかける桐の日々散々。

「VESSEL」@ロームシアター京都(9/4)

 改めまして京都VESSELの感想…というか雑感というか。もう数日…一週間近く経ってしまって、あれは夢だったんじゃないかと思うような、不思議な気分です。わたしの日常とあまりにも乖離し過ぎている世界だった…そして直島から引き続いてそんな感じだったから、ほんと別世界に神隠しみたいなのに攫われてたような気がしてならないや。

 感想にもレポにも何にもならないけど、目にしたものを反芻したいのでもぐもぐしますね。

 2日目は6列目、実質は4列目だけど、ほぼセンターから。初日の2列目に比べると、多少高さがあるので、真ん中の白い…何なんだアレは、台? 器? 皿? 白い…アレの地面が多少見えるかな?くらいの感じでした。2列目でもわりと、距離はあったので、そんな視界いっぱいにひとりしか入らなくて全体がわからない…みたいなことはなかったけど、それよりもまた少し引きでは観られた…かな…? 初日はとにかく口ぽかーんみたいな状態で終わってしまった*1ので、心的余裕も多少は…少しは…あったんじゃないかな…どうかな…。あの、ある種異様な世界をもう一度味わえる高揚感と、もう一度あれを観るのか…というちょっと怖いような気分と、どっちもあったのを覚えています。

 三十三間堂観光などしていたらあれっもしかしてギリギリ?みたいなことになりかけましたが無事間に合って、2回目にして最終回のVESSEL*2でした。正直、初日と比べてどうこうって云えることが皆無で…うーん…あっ何となく、ヘッドレスポーズの腕の締め方が2日目の方が緩かった気はします(笑)。後頭部が腕の隙間から見えた。ほら、こういうレベルのことしかないから!! とにかく、あれが人間の身体だよーと思いながら観ても脳が「わかりません」と返してくる…からもう人間と思わずに、ああいう形の超生物と思って観る感覚。人間観てない。舞台上に人体が発見できない。初日を観る前に、「どこに未來さんがいるか探さずに観る」と心に決めて臨むと云いましたが、始まってみたら何かそういう状況じゃ全くなかった(笑)。どことかそういう思いが頭に浮かびすらしないというか、そういう次元じゃないというか、誰とかじゃないから。何?だから。人間がまず見つかってないから。

 印象としては初日の連想ゲームみたいなものと変わらないんだけど、何ていうのか、作品そのものが「原初の海」みたいだなーと。生と死、発生と終焉、未分と進化、分裂と結合、増殖と集束、そういうイメージ自体が全部どろどろに溶け合って混ざっているスープみたいな作品。わたしは時間切れで聞けなかったダミアンさんと名和さんのアフタートークで、冒頭のシーンは「賽の河原」のイメージと云われていたそうだけど、死のイメージが色濃く描かれている場面に、わたしはとても強く生/誕生を感じて、その差異というか齟齬も面白いなぁと。死後甦るのか、死後の世界なのか、全てが黄泉のイメージと云われてもああ…と納得する異界感だったなぁ。ヘッドレスの異形のモノたち、「肉体」の放つ生の力強さが輝きを放つから、「生き物」の印象を持つけれど、そう云われると亡者にも鬼にも見えてくる…。とにかくこの世のものではないのは確か。

 音楽と音響の素晴らしさも忘れられないなぁ。終盤で音量が上がっていくところの鳥肌感、たまらなかった…ぞわぞわした…。白いアレに沈んでいくところは、初日に角度的にそこまで見えなかったけど、2日目には水面(?)もちょこっと見えて、踏みしめるごとにずずっと沈んでいく脚から、顔の半分くらいまで沈み込むのが観られました。あのラスト、回帰のようにも終末のようにも見えるんだ…あの中に沈んで、また塊になって生まれて分化していくようにも思える。あの中で無に帰って、また塊として誕生して、バラバラになって、結合して、って繰り返す、そういう生命活動みたい。もしくはそういう業を背負わされた化け物か。そういう生態を持つ未知の何かか。不気味で怖いんだけど、圧倒的な引力で目が離せない。凄い。具体的に何か、宗教的なモチーフが出てくるわけでもないのだけど、ラストに漂い幾重にも層を為す白い泡は、何となく仏経画の雲のようにも見えるし、そう思うとあの白い台のようなお皿のようなものも、仏像の蓮台みたいに見えてくる…かもしれない。冒頭の首のない女性は天女かもしれない…なんて。でもきっと、仏教の知識がない国の人が観ても、何らかの神的イメージを抱いたりするんじゃないかと思います。何教ってわけではなくね。もっと原初の、太古の、プリミティブな何か、精霊とか神秘とかそういう…イメージ…。両手であの白いのを顔から背中から被るのも、何かの儀式めいていて、何だろう、潜在的な敬虔さを呼び起こさせるというか…信仰とは違うんだけど、何だろうね。神秘に触れると何かそういう部分が震わされるものなのかな。

 むしろカーテンコールで人間型に戻った出演者さんたちの姿にびっくりしてしまうところがあったり。本当に人間の形した人間の身体だったんだ…ってまた認識が混乱する(笑)。ジャレさんと名和さんへ拍手を送る姿に、ちょっとホッとしたりもする…。人間が戻ってきた、知っている生物になった感。*3

 犬島での公演が、日没とともに始まる野外公演と知って、俄然行きたい気持ちがむくむくと湧きあがってしまっています。あれ野外で、暗くなりゆく空の下で、しかも島で、なんて凄いに決まってるー!! しかし犬島攻略は難易度が高いことも聞いているので…悩ましい。しかしあれだね、一度行っちゃうと、島行ける気がしてきてしまうのは危ないですね。ハードル一度壊れたら決壊しまくり、とかに気をつけよう…。

 あとは何だか情けないひとりごとなので畳みます。


 直島に引き続きというか、立て続けに脳髄揺さぶられるようなものを目の当たりにして、何というか、いや元々すごいとは思っていたけど、好きな子がどんどん凄くなっていってしまう感をひしひしと感じる2016年の夏でした。すごいなぁ好きだなぁって最初からずっと思っていたけど、最近のすごいはちょっと違うからなぁ。ダンスが上手くて唄が上手ですごいなぁ、じゃないもの。人として凄くなっていかれてしまうんだもの。人気が出て寂しい〜とかじゃないもの。人としてのレベルが違ってきて寂しいもの(笑)。今、過去最高級にすっごい好き期(笑)なんだけど、わたしの好きの裏側には常に、こんなに凄いひとをわたしなんかが好きで良いんだろうかという不安がべったり張り付いているわけで。自分にはこのひとを好きでいて良い価値が果たしてあるんだろうか、いやない、とぐるぐるしてしまうんだ…わたしなんぞが「好き」なんて云ってはいけない相手なんじゃないかと思ってしまうんだ…それが何に由来しているのか、劣等感なのか何なのかわからないのだけど、すっごい好き!!!って気持ちと、いやいかんだろ…って気持ちの振れ幅が大きくてちょっと苦しいです(笑)。でも好きなんだもん…仕方ない…どうしたらそういう風に思わずに好きでいられるのかなぁ。基本的に、好きの後ろにごめんなさいが付くので、多分だんだんそのごめんなさい部分が肥大してきているんだと思う。すごい!!っていうのと比例して大きくなるのは、どこかで「それに比べて自分は」っていう部分があるからなのかなぁ。比べられる要素も皆無なのに、そもそも自分にできないことをしている人を見るのが好き、から大元は始まっているから、ほんと並ぼうという気もさらさらないんだけど。おこがましいんだけど。

 まぁ何かそんなことも考えてしまう凄さだったんです。でもいいんだ、これからもどんどん凄いところに昇っていってほしいし、昇った上の高みから、わたしの場所からじゃ到底見ることのできない世界を、彼を通して見せてもらえるから、それが楽しくて楽しみで追いかけ続けてるんだから、もう、どこまでも行ける限り行きたいところまで昇って登って上って下さい…追いつこうなんて思えないけど、首が痛いよーって云いながら一生懸命背伸びして空を仰いでるからさ。だって好きだから、さ。

*1:実際には閉じてましたが。…多分

*2:ところでこれはヴェッセル? ヴェセル? ベゼル?? 勝手にヴェセルと読んでいるのだけれどフランス語読みで合ってるのかどうか知らん

*3:そして幕が下りた後に台上で何やら楽しげにしている皆さんの姿が水鏡に映ってとても鮮明に見えていたことは…えっと、楽しそうでした…もちゃもちゃ投げてた…。