ミライ派野郎

森山未來とその周辺を果てしなく気持ち悪い感じに追いかける桐の日々散々。

「踊る阿呆」を見て思ったことなど

(番組の内容がどうだったとか、あのシーンのあれが!!とか、そういうのでは全くない、ただのわたしの感想というか感情というかをだらだら垂れ流しただけなので、レポ的なものを期待しないで下さい。いつにも増して鬱陶しいポエムというかう●…廃棄物です。でもわたしにとっては大事な廃棄物〓。)

 すっごくすっごく楽しみにしていて、生の舞台の開演直前より緊張して放送開始を迎え*1、開始早々の楽しそうなナレーションに「あらゆるい(笑)」なんて笑って、ずっと楽しく観ていたのですが、何だかね。放送終了後にずどーんと重くなってしまいました…。おかげで昨日まで引きずって凹んでたんだよ(笑)。
 断片的な赤裸々な、手ブレで若干酔いそうな(笑)、ハンディカムの映像が、ぶっきらぼうなほど無骨に並べられていて、少しのテロップとナレーションが入るくらいで、もちろんどこを切り取るかとか、チョイスや繋ぎ方に「演出」はあるのだろうけど、ほとんどそれを感じさせない、本当に、撮って来たよ! 出したよ!っていう1時間で。「俳優・森山未來」は全く映っていなくて、ひとりの日本人の若者が、異国の地に飛び込んで、踊って、戸惑って、悩んで、笑って、生きた1年間の記録、でした。きっと、未來さんじゃない誰かでも、面白い映像になったんじゃないかと思うし、単身異国で武者修行という状況としては、それほど特殊な映像が撮れているというわけでもないんだと思う(戦争は特殊か)。でも、そこにNHKが乗っかって、スタッフがついて企画になって、こうして番組として放送されるのは、それが「森山未來」であるから、ならでは、で。まったく「森山未來」としての付加価値*2をはぎ取って過ごした1年間が、その付加価値があるからこそこうして目に見える形になって、そしてその付加価値部分をきっかけに彼を見続けているわたしのような人間がそれを観る、という…何か、壮大なパラドックスですね。皮肉っぽくもある。でも、付加価値が付いてないとそれをはぎ取ることによって生まれる別の価値もないわけで。『1年間「森山未來」をやめてみた。』というカタストロフが成立するには、前提条件として『「森山未來」である』が必要不可欠で。「森山未來」であることをやめた人間を、「森山未來」として観ることによって生じる、観るからこそ生じる、ギャップや意外性を楽しむ、という非常に高度なことを何となくやっていたのだな、と。外国人ダンサーと英語でコミュニケーション取ったり、路上パフォーマンスしたり、帰りたくないと涙を拭ったり、それら全ての事象を観る側の上にはまず、「森山未来が」という定冠詞が付くから、その背景や、1年終えて日本に戻った時の彼の立場を大なり小なり思い浮かべることができるから、だからこそ特別な映像になり得るのであって、そういう冠詞を持たないひとが同じ映像を撮っても、ある種の感慨は生まれにくいんだろうなぁと、結局は我々は「森山未來」を観ることしかできないし、彼も「森山未來」をやめることはできないんだなぁと、すごく当たり前の部分を改めて突き付けられてしまいました。
 だからこそ、というか何というか、帰りたくないとナーバスになる姿に、帰らなくていいよと思ってしまう。もっと彼の地に居てほしい、居させてあげたいと思ってしまうのです。そうはいかないことが前提の、だからこその1年間なのだろうけど、もう「森山未來」やめちゃえよ!って、思ってしまう。彼が「森山未來」に戻ることが、果たして彼にとってプラスなのかどうか、わたしには自信をもってそうだと、だから帰って来てと、思えなくなってしまって。もちろん、この1年帰ってくるのをずっと待っていたし、また舞台や映像で活躍する姿を観られるのを心待ちにしていたのだけど、少なくともあの番組を観た直後は、帰ってこなくていい、もっと向こうに居た方がいい、居てほしい、と強く思ったし、戻って来ざるを得ない彼の姿が不憫に思えてしまって、何だかとても気持ちが沈みこんだのでした…。
 正直、1年の不在の間、寂しいとか早く帰って来て欲しいとか、もちろんすごく思っていたけど、不在に慣れても来たんだろうけど、だんだん、こういう感じでもわたし大丈夫かもしれない、とも思えてきていて。国内で活動していなくても、Switch連載的な、定期的にどうしてるか伺える媒体があって、年に2回くらい日本での公演があって、ってスタンスだったら多分、拠点が海外に移ってもわたし大丈夫*3、という気にだいぶなっていたので、よけいに、今ここで帰るのがもったいなくて仕方なくなってしまった、のと同時に、「森山未來」でなくなった彼がこんなにも自由で軽快で、何というか、呼吸が楽そうに生きているのを目の当たりにしてしまうと、その姿が魅力的に見えれば見えるだけ、そもそも「森山未來」を好きになってこれを見ている自分は、これを見て素敵だ魅力的だと感じている自分は、一体何を、誰を、彼のどこを、好きでいるんだろうと、好きでいたんだろうと、これから好きでいればいいんだろうと、ある意味アイデンティティが揺らぐような朦朧とした感覚にとらわれてしまって、自分がずっと好きでいた「森山未來」はじゃあ窮屈だったのかとか、帰国して再び「森山未來」として生きることは、一度空を飛んだ鳥をまた鳥籠に閉じ込めるようなものなんじゃないかとか、わたしが好きなのは鳥籠の中だったのかとか、何かもうそれはそれはどうでもいいことをぐるぐると考えた挙げ句に落ち込むという、本当にまぁ実のない凹み方をしたわけです…。好きなひとに幸せに生きてほしいけど、わたしが好きなそのひとはそうではなく生きていた部分である、というのはあれですね、なかなかつらいものなのですね(笑)。
 もちろん、「森山未來」に戻ることが別に何ら不利益をもたらすものではないのであればね、彼がまったく、しがらみとか仕事とかスケジュールとか義理とか抜きにしても、やっぱりあの場に戻りたいと願うのであれば、それはもう、両手を上げておかえりなさいと、素晴らしい経験をしたねこの1年がきっとこの先のあらゆる活動に生かされてくるよねと、ただもうそれを楽しみに心安らかに(笑)、これまでどおりファンでいられるのです。そうであってほしい。じゃないと困る。いや、きっとそうだと信じているんです。いるんですが、番組を見終えた瞬間には、ちょっとそう思えなくなってしまっていて、それでとても凹んでしまった、という、それだけなんですハイ。昔からずっと、彼が望むとおりのことを、望む形で実現させてほしい、それがわたしの目に見える形で提示される状態だと尚嬉しい、というのが基本の応援スタンスでしたが、今回すごくそこが揺らいだので、泡食ってしまったんですね。うん。たとえ揺らいだとしてもそれが彼の望む形なら、と思ってたはずなのに、いざ揺らぐとだーいぶ…狼狽えるのな(笑)。情けないなー!
 一日しょんぼりしてたけど、今はすっかり抜け出しました。わたしがもにょもにょ考えたって、それこそどうにもならんしね。もにょもにょするのが趣味なんです、だから好きなだけもにょもにょしたからもうスッキリなんです。
 願わくばどうか、彼が「森山未來」に戻ることが、「森山未來」をやめること以上に、彼にとって有意義でありますように。でも、もしやっぱりやめたくなっちゃったら、やめちゃってもいいと思うんだ! 1枚の真っ白い紙に戻って、全然違う、知らない物語を書き込むのだって、アリだと思うんだ! たとえわたしがその物語を読めなくても、それでもあなたがそれを望むのなら、望むままに、どうか生きてほしいのです。

*1:最近舞台の開演前はずっと「わかんない」「現実感ない」っつってるからね…

*2:って云い方もちょっと違うかもしれないけど他に思いつかなくて

*3:わたしが大丈夫かどうかなんてどうでもいいことですがわたしにとっては一応そこが大事なところで