ミライ派野郎

森山未來とその周辺を果てしなく気持ち悪い感じに追いかける桐の日々散々。

桜美林大学パフォーミングアーツプログラム<OPAP>vol.56 「青春の門-放浪篇-」@プルヌスホール(11/17昼)

 この演出家/俳優の作品はなるべく見るリスト、というのをぼんやりと決めてありまして、演出家の上位常在なのが演劇企画集団TEH・ガジラ主催の鐘下辰男さんで。ガジラはもう絶対逃したくないし、ガジラ以外での鐘下演出作品もなるべく観るようにしている*1のです。で、鐘下さんが桜美林大学で演劇を教えてらっしゃることは何となく認識していましたが、どうやらその学生さんたちによる公演があるらしいぞ…というのがツイッター上に流れてきた、のが今回の観劇のきっかけというわけです。でも桜美林大学遠いんだよ八王子のさらに向こうなんだよ…もうちょっと近ければ行くんだけどなぁ〜、なんてぼやいていたら、観劇された方の感想ツイートがちらほらと目に入り、…ええ、これはやっぱり多少遠くても行った方がいいんじゃないか的雰囲気に満ち満ちておりましてね…参りましたよ淵野辺横浜線のこっち側(横浜じゃない方)乗ったの初めてだ! のどかな駅の目の前にガラス張りの綺麗な建物がそびえておりまして、そこが桜美林大学の施設でプルヌスホールという会場でした。同じ建物内では英語検定の試験か何かが行われていてお静かに的貼り紙が出ていましたが、ええっと…音漏れ大丈夫だったのかしら(笑)。
 大学生の授業の発表的な公演だろうと高を括るわけではありませんが、何せ鐘下さんに直で教わってきている子たちだし、でも大学生だしね、と過度の期待はせずでも心構えはガジラと同等、くらいで会場内に入ると、暗いハコの周囲にぐるりと足場が組んであり、2辺にパイプ椅子とひな壇の客席が設えられて、端には教室の机や椅子が積まれ、その椅子や床の上やに…学生さんが…ごろごろと。もう、この瞬間からうわこれ絶対鐘下全開だ! わたしこれ好きだ!と…あの光景だけで遠くまで来たのが報われた感でいっぱいになりましたよ(笑)。足元に転がる学生さんを避けるようにして座席に着くと、チラシと一緒に置かれているのは…マスク。前方席にはビニールシートも、もちろん配布。血糊とか水とか飛ぶんですね了解です楽しみです。ビニールはともかくマスクは何対策??と思っていたら、煙草の煙対策とのことでした。なるほどー。
 開演のアナウンスがあり、照明が落ちて、長い長い沈黙が破られ、そこから怒涛の2時間、ひたすら固唾を呑んでただ凝視するだけ、でした…熱かった…凄いもの見た…。
 五木寛之の原作はまったく知らなくて、セットの中に組み込まれた黒板に「昭和30年」の文字があったので、ああ戦後のその頃の話なんだ、くらいしかわからず、その時代の話に果たして入り込めるだろうかとちょっと身構えたけど、あんまり関係なかったというか、それどころじゃないというか。言葉と肉体と精神のバイオレントリーなぶつかり合いはいつもの鐘下作品と比べてもまったく引けを取らず、演劇を志す大学生の役を、まさに演劇を志す大学生たちが演じるというシンクロニシティと、昭和30年と今、という重ねようとしてもそのとっかかりさえ見つけられないだろう時代背景の乖離感を力ずくでも手繰り寄せて自分たちの側へ取り込もうとする、そんな熱量が、狭い会場の中で爆発し続けるような舞台だった。
 60年安保前夜の1955年、東京の大学の演劇サークル「劇団白夜」は函館へ渡り、見知らぬ土地で労働しつつ得た経験を芝居に昇華させようと放浪の旅へ出る。あてもなく降り立った函館の港町で港湾労働と水商売の職についた大学生たちは、労働者がヤクザ者に不当に搾取される現実を目の当たりにし、これは間違っていると声を上げる。が、地元の大人たちはもちろん、搾取される側の労働者からも石を投げられ、劇団公演の目処も立たず、理想とはかけ離れた現実に学生たちは心身ともに疲弊していく。そんな時、世話になっている食堂の一人娘・トミの身に起きた事件が、彼らの想いに火を点けるが…。
 ふんわりざっくりとはそんな感じ、だったはずです。何かもう、圧倒された。すごく不思議な感覚だった。芝居として、この話はどうなるのかを凝視しながら、同時に、これを演じている大学生たちはこの話を、この役を、この時代を、役たちが演じようとしている「演劇」を、どう思いながら演じているんだろう、というのがずっと頭から離れなかった。学生が、自分たちが挙げる声で社会を変えられると信じていた時代。演劇が、民衆に対するアジテーションの意味を持つと信じられていた時代。同じ大学生、同じ演劇を志す者、近似点が多い分余計に、背景や時代や、演劇そのものが持つ意味、演劇と学生がどう対峙していくか、いろいろな部分があまりにもかけ離れて感じられて、それを演じる彼ら彼女らが、どういうスタンスで演じ、セリフを口にしながら何を感じているのか、それをどう捉えているのか、そんなことがすごく気になった。…のは、やっぱり「大学生の演劇」というのがずっと頭にあるから、なんだろうな。普段お芝居観ててそういうことは思わないし。あと、偶然ちょっと前に映画「マイ・バックページ」(の録画)を観たり、新撰組の末期の話*2を目にしたり、していたのもちょっと関係あるのかもな。タイミング的にとてもそういう、時代の流れを変えられると信じることができていた頃に、それは成らないことをもう知ってしまった自分が触れる、という機会が重なって、そういう感傷的な目でも少し観ていた気がする。リアルタイムでは知らないけれど、多少なりとも空気感や伝聞だけでは学生運動や労働者闘争の話を聞きかじっていた自分ですら、本当にそれを信じて行動していた頃があったんだよね、とどこか夢みたいな気がしてしまうのに、現役の、はたちそこそこの学生さんたちが、それを見て演じて何を思うのか。そんなことを頭の片隅でずっと考えながら観ていました。もちろん、普遍的なものはたくさんあると思う。けど、想像もつかないようなことも、たくさんあるだろうな。もちろん、知っている世界の知っている事象でないと演じられない、なんてことは当然ないのだけれど。ただ、純粋にひとつの興味として、この作品をあんな風に演じた彼らは今後、演劇をどう捉えて、何を思って、どんな芝居をしていくんだろう、という思いが強く残りました。
 とっつきにくい世界観かと思いながら観始めたはずなのに、最終的にクライマックスでは涙が出てしまって自分でも驚いたのと、一見無骨で生々しく思えるんだけど、実はすごく演劇作品として作り込まれた作品だったのも面白かった。仕掛けというか、仕組みが、ラストでああ、なるほど…!となって気持ち良い。何というか、すがすがしい美しいラストだった。頭でっかちで甘ったれて理想ばっか掲げてひたすら青いばかりの学生さんたちだけど、最終的にみんな愛しく思えてくる。
 伊吹くん、あの距離感の客席と相対してのあの芝居、凄かった。ぼこぼこにされて泣くシーン良かったなぁ。トミちゃんがすごくすごく美しかった、登場シーンの日本人形めいた佇まいも、傷ついて白い棚の中に仕舞われるのも、激昂も、最後の民江とお洒落した姿も。食堂のおやっさん、ステキだった。島さん、声がすごく良い。知的セクシー。民江の浮遊感のおぼつかなさ。あの子は一番強くて脆そうな。男も女も、今よりずっと本能に忠実に生きてた時代なのだな、喜怒哀楽も、闘争心も、衝動も、すごく赤裸々。
 鐘下OPAP、こんなものをいくつも見逃していたなんてもったいなさ過ぎて、終演後に過去公演写真展示を見ながらギリギリしてしまった(笑)。どういう周期で上演されるのかわからないけど、またあったら是非、淵野辺まで行きたいです。行って良かった。

*1:けどたまに逃す

*2:東北から五稜郭の辺り