ミライ派野郎

森山未來とその周辺を果てしなく気持ち悪い感じに追いかける桐の日々散々。

葛河思潮社第三回公演「冒した者」@吉祥寺シアター(9/16夜)

 つい先日まで失禁公演だった吉祥寺シアターで、葛河思潮社を観てきました。第一回公演の「浮標」以来です。第二回の浮標もすごく観たかったのだけどタイミングが悪かったのか何だったかで逃してしまいました。「浮標」と「冒した者」はどちらも三好十郎作で、登場人物もうっすらと引き継いでいるので、「浮標」は観ておいて良かったです。
 戦後間もなくの東京、空襲で焼け残った大きな屋敷に、身を寄せ合って暮らす9人の男女。遠縁であったり、友人であったり、親子であったりの彼らの、互いにほんの少し気づかいながら保たれていた平和な日常に、ひとりの来訪者が、投げ込まれた小石のように波紋を起こす。彼の投げかけた波紋によって、それぞれが、薄皮一枚の下に隠していた本性を引きずり出され、そして崩壊する日常。原爆投下、敗戦という未曽有の経験から数年を経て、やっと取り戻し始めたささやかな日常が、まさに薄氷の上に立つものでしかない感覚が、現在の、現代の皮膚感覚にすごく近しく感じて、60年も前に書かれた戯曲とは思えないリアルな感覚になりました。特に2幕冒頭…逆に、これがあったからこそ、葛河思潮社がこの作品を上演したのかな、とまで思えた。と同時に、60年経ってもまだ、同じ地点から動いていない状況というものを空恐ろしく感じました…何ひとつ学ばないまま、ここまで来てしまったんだな…そしてまた、学ばないまま振り切って行こうとしているのだな…。
 タイトルの「冒した者」は誰なのか、何を冒したのか。もちろん、松田くん演じる須永がわかりやすく筆頭なのだけれど、彼をきっかけに暴かれていくのは、表面下にそれぞれ抱えた毒のような部分で。登場人物ひとりひとりが全員、それぞれにとっての禁忌を「冒した者」である、と同時に、何か得体の知れない毒のようなものに「冒された者」なのだな、と思いました。毒というか、うーん、「冒す」という言葉の持つ、浸食とか作用とか、そういう意味合いの、原因になる何か。それに触れることによって、自分に変化が起きる何か、それは金であったり、死であったり、やっぱり毒であったり、神であったり、国であったり、人であったり。そういうあらゆる、作用をもたらす側の事象は、ひとりひとりに違う形をとって現れているけれど、引きで眺めたら同じひとつの、黒くて巨大な靄のような、何かが頭上に大きく漂っているのではないか、それこそが「冒した」ものなのではないか、とそんな印象を受けました。何だろうな、時代とか、社会が抱える不安とか、は云いたくない(笑)。
 それぞれに冒され、冒した者たちが、崩れかかった屋敷の中で、ぼろぼろになっていく。その姿は醜くて滑稽で、でもものすごく濃密な「生」を感じさせもして。その中で、広島で被爆し視力を失った少女モモちゃんと、須永だけが、奇妙なほどに透明で硬質で汚れなく。ふたりから、生の匂いは感じられず、だからこその透明感なのだろうな。だって、生きるって汚いもの。
 原子力に手を伸ばし、神の領域を「冒した」人間たちの未来を、三好十郎はどう考えていたのだろう。60年後にまだこんなことしてるとは思ってもみなかっただろうな。恥ずかしい。
 俳優陣は葛河思潮社おなじみな面子で盤石。そこに投げ込まれた松田龍平の異物感がとても良かった。古い言い回しや言葉も、あの訥々とした語りと声によく似合って、全く違和感覚えさせずに聞かせる。松雪さんの婀娜っぽさも良かったな。銃声が大きくて身構えていたのにビクゥッ!となってしまった(笑)。