ミライ派野郎

森山未來とその周辺を果てしなく気持ち悪い感じに追いかける桐の日々散々。

「金閣寺」@ACTシアター(2/3夜)


 時間経ってしまいましたが、凱旋公演をやっとこさ観に行きました! KAATでの公演は認識していたのだけどあんまりちゃんと調べもしなくて、山川冬樹さんが出ていることに途中で気づき、でも気づいた時には遅くてチケット取れず…名古屋まで遠征する!?と一瞬血迷った考えが頭をよぎるくらいには観たかったのです…行かなかったけど!(笑)NY公演があって、凱旋公演が決定した時に、今度こそ見逃さない!と気合入れてチケット取りました。A席だけどね!*1
 主演が森田剛、共演に高岡蒼甫大東俊介、と煌びやかなキャストに、アンサンブルが大駱駝艦、鳳凰役に山川さんというアングラ臭漂う取り合わせで、しかも演出が亜門さん、てどうなるのかしらとわきわき観に行きましたが、うん、良かった! セットや演出がド派手とか、すごい仕掛けが…とか、では全然なくて非常にシンプルな舞台上に、ちょっとひねった演出で、硬質で繊細な三島の世界が描き出された作品でした。
 
 役者さん板付きで始まるのも、机やロッカーなんかを組み合わせたり照明で区切ったりしてセットに見立てていくのも、そーんなに目新しい感じではないけど、金閣寺だけは何か凄かった。アンサンブルの肉体で形作られる金閣寺の、何とまぁ肉感的で生々しいことか(笑)。その頂点に、金の装束を纏って君臨し異形の声で咆哮する鳳凰の、何とまぁ神々しく禍々しいこと!! 鳳凰の「声」は溝口にしか聞こえない、声というよりは溝口の内側とそれを映す金閣寺の共鳴音みたいなものだと思うのだけど、ほんっと圧倒的な存在感で…もちろんそれが目当てで観に行ったので当然なんですが、たまらなかった。むしろ時間短いのがもどかしくて…もっと聴きたいもっと、ってなってしまった…呼び水的にね…。金閣登場する前、学校のシーンで外界とのコミュニケーションが取れない溝口の心の軋み、みたいな音を山川さんが出していたのも、鳳凰の声はイコール溝口の内なる声、みたいな感じなのかなぁと。鳳凰−溝口の関係性、という一面だけでなく、この作品内における山川−森田の関係性が、場面や役が変わっても同じなのかなーなんて思いながら観ておりました。とにかくね、圧巻。
 大東くんは、溝口が憧れを抱きつつ目を伏せてしまうくらい快活で美しい友人・鶴川を好演していました。わかるなー眩しすぎて直視できない感じ。キラッキラしていたもの。テレビで見るより何と云うか、あれ、こんなに美人だったっけ?て思った(笑)。あと案外声が高いのね。朗読パートは落ち着いた声だったけど、高らかに笑った時にちょっとびっくりしたよ(笑)。その快活さの裏にまた色々あったりするのだけれど、うん。そういう、含みを持たせる感じはあまりなかった、のは、ない方が良いのかな、どうなのかな。ちらりと匂わせた方が効果的な気もするけど、でも鶴川は溝口にそれを見せないようにしていたから、いいのか。わからない(笑)。
 高岡くんがまた…難しい役どころで…身体壊さないように気をつけて頂きたいです…。足のハンディキャップを逆手にとって女をはべらすような強かさ、暴力的な生命力がギラギラしていて、なのにそんな表層のすぐ下には優しさやナイーブなものを抱えている感じが透けてみえて、粗野だけどそれだけで終わらない。こういう人はモテますよね(笑)。彼がああいう強かさを身につけるに至るまで、きっと泥を飲むような思いをたくさんしてきたのだろうなぁと思わせる、立体的な人物造形でした。
 そして溝口役の森田くん。「IZO」で観た時も、ちっちゃくってぼろっちくて可哀想で、なイメージだったので、何か、そういう子にしか見えなくなりそうな(笑)。亜門さんが先日いいともで、「溝口にしか見えない」と云ってらしたけど、その通りでした。V6とかジャニーズとか、一切喚起されない、できない。吃音のある青年なんてまた難しそうな役どころを、完全に宿してた。V6の森田くん、にちゃんと戻れるのかしらと心配になるくらい…猫背で膝がちょっと伸びきらなくていつも口をとんがらせたみたいな声でたどたどしく喋る溝口、でした。原作のイメージより可愛らしい、愛され系な印象では、あったけど(笑)。
 鳳凰の「声」に関しては、横浜公演中にちょこっと小耳に挟まってきていた*2ので、どんなものかしらとそれでもわくわく待ちかまえていたのですが、えええこれ不快なのおおお? ダメなのおおお? わたしすっげぇ好きなんですけど…、という。たしかにかなりのボリュームで響き渡るので、前方席とかスピーカーに近いとキツイのかしらでもわたしもっと爆音でもいいーって思ったよ(笑)。骨伝導マイクで増幅されたホーメイは確かに歪んでノイジーだけど、でもすっごく身体の芯からびりびり共鳴させられる感じで本当にタマラナイ。もっと浴びたい。あっという間にいなくなってしまうので、もっとー金閣もっとーー、て焦れまくっていたのですが、それでも「長くて頭痛くなる!」って方もいらっしゃるのよね…嗜好って不思議だ…。溝口が金閣に心を奪われ、徐々に心を侵されていく過程、憧憬から同化そして侵蝕への移行が、手に取るようにわかるのも面白かった。最初に溝口が金閣を目にした時、「こんなもんか」て失望するけど、その時鳳凰は一瞬後ろにふらりと現れて、暗いまますぐにいなくなっちゃうのね。まだ溝口の琴線に触れてないのね。それが、金閣に目を奪われた時に初めて、あの「声」を厳かに響かせながら、背後から溝口の頬にそっと触れていく。何かもう、ああ、掴まったな、って。完全に捕えられたな、って、もう逃げられない感がすごい。あの鳳凰に囚われたらね、無理だよね(笑)。山川さんの綺麗な肉体と中性的な顔立ち、長い髪、そんな風貌があの声に合わさって、完全に「この世ならざるモノ」として存在していました。その説得力が本当に凄かった。そんな鳳凰は徐々に溝口を蝕み始め、彼が「俗」に触れようとするとその異形の声で彼を引き留める。美しいホーメイだった声はどんどん歪んでノイジーになって、溝口を支配する。…そういう役目の声だから、違和感や嫌悪感を感じて正解なんですよね。わたしは好きだけどね(笑)。ついに溝口は金閣に火を放つ、その断末魔がまた…良かった…焼け落ちる鳳凰の断末魔だった…「あの」金閣寺が燃えるのだから、あのくらいの呻吟、あのくらいの咆哮は、本当に聞こえてそうな。金閣が燃える音はあんな音だったんじゃないかと思いました…凄かった…*3
 ラスト、焼け落ちる金閣寺を眺めた溝口が、「…生きよっ」と呟いて舞台を降りる*4のが、印象的でした。三島の原文では「生きようと私は思った。」と書かれて*5いて、そのままの意味に受け取っていたのですが、今回の溝口の「…生きよっ*6」と、その後の舞台から降りて客席に座るという行動は、何だか、溝口も死ぬんじゃないかと思えてしまった。舞台上に在ることを「生」とするのなら、そこを降りたら「死」なのかな、なんて。でも、逆に、「金閣寺」という物語の中の「溝口」としての生、を終わりにする、という意味で舞台を降りたのなら、その先の彼の生は、「金閣寺という物語の中の溝口」を捨てて、ただひとりの人間として「生きよう」ということにも、なるのかなぁ。金閣からの、そして「金閣寺」という物語からの呪縛を逃れ、やっと、「彼」というひとりの、観客と同列の人間に立ち戻って、生きることができる、その始まり。そんな風にも思える。でもそれは、裏を返せば、観客の誰もが簡単に「溝口」の側へ転化できる、という意味でもあって…メビウスの輪のようだなぁ。パンフなど一切未読なので、妄想ですが、そんな風にわたしには見えましたよ。
 じわじわと後から色んな思いが滲み出てくるような舞台だったので、もう一度時間をおいて観たらまた、違った風に見えたり、ぼんやりしていたものがはっきり見えたり、するのだろうと思います。残念ながら千秋楽も終わってしまったのでもう叶いませんが。カテコで森田くんが、マイクオフで「ありがとうございました!」って叫んでくれたのが、ちょっとホッとしました(笑)。溝口のままじゃ辛かろう…。
<2/16追記>
 山川さんのホーメイに関してのツイートがまとめられているので参考までに。初演時のですが。
舞台『金閣寺』、山川冬樹さんの発声について(初演時) - Togetterまとめ

*1:取ることに気合を入れたのであって良席かどうかには気合入れない/笑

*2:不快感を覚えるひとが多いらしい、とか

*3:山川さんはあのシーンで本当に失神することがあったそうです。凄い、けど気をつけて頂きたい…

*4:客席側へ飛び降りる

*5:確か…違ったらすみません

*6:何か、こういう云い方だったの。生きよっと、みたいな、軽い