ミライ派野郎

森山未來とその周辺を果てしなく気持ち悪い感じに追いかける桐の日々散々。

大阪のしゅくだいの続きの残りのもうちょっと

 前楽公演の2幕を追加しました。→id:xxkyrixx:20090112
 ほぼ暗号みたいなメモを手がかりに、終わってしまった公演を何とか無理矢理脳内再演しつつ、だらだらもぞもぞと文字を打っている日々なのですが、打ちながらまたイランコト考えたり散歩したり迷走したりするので、なかなか進まないんだな(笑)。
 
 「魂売ってちょうだい」以降カメラを持たないマークを、最初はただ、魂を売った=アレクシーとの「仕事」以外でフィルムを回さなくなった、自分の撮りたいものを撮らなくなった、というふうにしか受け取っていなかったのですが、それが間違いだとは思っていませんが、でもちょっとだけ思ったのは、カメラを置いた後のマークは、傍観者でなくなってるんですよねきっと、ていう。あれだけ生身をぶつけ合って、火花散らして、すり減らして、自分も傷つきながら相手を攻撃して、自分が負わせた相手の痛みを自分にも受けて、ぼろぼろになって、まさしく「真っ只中を生きてる」と思う。のだけど、真っ只中を生きてる人には、自分が今真っ只中にいる、ということは多分、わからないんだろうな。
 魂を売ってカメラを手放すことによって、傍観者という場所を抜け出す、ってすごく皮肉だなぁと思います。が、ロジャーもギターを手放しミミから逃げてサンタフェに行くことによって、自分自身を取り戻しワン・ソングを見つけることができたわけで…一番大切なものを一度手放すことによって、自分を見つめ直すことができる、というか一度手放さないと見つめ直すことができないもどかしさ、をひっくるめて人間というものなのかなー、とか。そんなことを思いましたよ。ほら、「世紀末に死んでいく、本当の自分になる為に*1」って…そんな感じなのかな、と。「本当の自分になる」とかすごく何か、手垢のついた日本語というか、表現な気がして、するっと鼓膜を通り抜けて終わってしまっていた一文なのですが、自分自身を一度殺すことによって、自分は本当は何者なのか、どう在りたかったのか、どこに立っているのか、立ちたいのか、そういうのが…見えてくる、そういうことなのかなー、と…いや、英語圏の人が読んで聞いて受ける印象と、英語がほんとにわからない日本語圏の人がぼんやり受ける印象とは、ずいぶん隔たりがあるだろうし、単語の背景にあるニュアンスとか、文化的背景とか、社会的背景とか、そういうのでも大きく違ってくるだろうとは思いますが。日本語の日本人がぼんやり読み取った感覚、くらいのアレですが。
 で、大切なものは一度手放してしまうと、往々にして手遅れ…になってしまいがちだけど、でもマークもロジャーも何とか手遅れにならずに切り抜けられたわけで。マークは「やめた!」と契約をぶっちぎり、ロジャーはエンジェルの助けもあってミミを取り戻し、…そここそがこの物語の「奇跡」なのかも知れない、なんて。思いましたとさ。
 うん、すっかり道に迷っていたのにドラァグクイーンも助けに来てくれなかった!

*1:We're dying in America,To come into our own