ミライ派野郎

森山未來とその周辺を果てしなく気持ち悪い感じに追いかける桐の日々散々。

阿佐ヶ谷スパイダース「失われた時間を求めて」@ベニサン・ピット

 金曜日の夜に、両国をてくてくして来ました。早めに着いたので、隅田川眺めに行ったら、屋形船がたくさん仕事待ちしてました(笑)。いいねぇ風情だねぇ。船酔いとかしないんですかね、あれで天ぷら食べて。酔わないなら一度くらい、乗ってみたい…かな。
 初めて行ったベニサンピットですが、場所がかなりわかりにくいというか…え、ほんとにこんな所に劇場があるの??という感じの…住宅街というか町工場たくさんというか…劇場周辺にはお店とか時間がつぶせそうなところがほぼ皆無でした。公園はあった(笑)。コンビニも小さいのがひとつ見つかった。でも劇場がねー!! もともと、「株式会社紅三」という老舗の染色屋さんの倉庫だった建物を、ほぼそのままの状態で劇場にしてある、ようです。これがねー。タマランのよ(笑)。わたくし工場やら倉庫やら、インダストリアルな建造物がワクワクの対象で、群馬県松井田駅*1から見える山の中腹にがっつり建っている工場群など、ワックワク☆ タマラン☆な感じ*2だったり、航空機の巨大格納庫とか、古い倉庫とか、何か…好きなんですねー(笑)。で、このベニサン・ピット。大変イイカンジの古倉庫なたたずまいで、夕闇の中に浮かび上がる鉄錆色の建造物に、やたらめったらテンション上がりました。ちょうすてきー!! たまらないー!!

 これが劇場なんですよぅ。たまらん。
 中に入っても、ほとんど倉庫のまんま、な感じで。やたら高い天井とか、どかどか鳴る床とか、中入っても上がる階段は外階段とか、トイレも外の別棟にしかないのとか、何かもう何かもう! 芝居観る前に建物でテンション上がりまくり(笑)。トイレもせっかくだから行っておきました。いかにも倉庫に付いてるトイレという感じで…でも一番良かったのはトイレ出てすぐの脇の上の方…天井近くの…リベット打ってあるところがたまらなかった…でもさすがにトイレの入口は写真撮れませんでしたよ(笑)。
 やたら劇場でテンション上がってしまいましたが、お芝居ももちろん。阿佐スパの最小メンバー、長塚圭史伊達暁中山祐一朗に「あともうひとり」の奥菜恵をくわえた、4人で演じられる、不思議な、素敵な、愛おしい作品でした。
 今回の阿佐スパは違う、という噂は聞いておりまして。ワークショップを重ねながら作っていった、というのも小耳に挟んでおりまして。公演始まって、ちらちらと横目で読む感想は、「難解」「不条理」「ストーリーわからない」「でも好感触」「気絶注意!」などなど、で。そうか難解で不条理系なのか、と、とりあえず寝ないようにがんばろう、と…(笑)。そんな心構えで臨んだ、新しい阿佐スパでした。
 舞台セットは一見シンプル、でも実はすごく…奥が深い*3。すんごい良かった、美しくて涙出た。公園の一角、みたいなベンチと街頭、そばには白いくずかご、その周囲には壁があって、ドアが付いている。室内なのか外なのか、わからない感じ。壁の手前には側溝がぐるりとあって、ドアの前からは橋状の道ができている。側溝の中には落ち葉がぎっしり。で、誰もいない舞台上に、大量の落ち葉が降りしきり、それが止まったところから始まる、…とても不思議な作品でした。何かに怯えた様に、寒そうに震えながら、散らばった落ち葉をかき集めてはくずかごに捨て、全てを捨て終わると、くずかごの中の落ち葉を抱えて出して、またばらまく。そしてまたたえられない様子でかき集め、捨て、またばらまき…くり返す中山祐一朗。観ているだけで息苦しくなってくる。昨日の晩にいなくなった大事な飼い猫を探す長塚圭史、その後をつけ回す奥菜恵伊達暁はある意味キーパーソン的な存在で、ベンチに座ってひとり本を読む。彼だけは「ここ」という世界を理解しているような。登場人物に役名はなく、それぞれの背景もわからないままに、主語がぼやけて噛み合っていない会話が続いていく。中山・長塚の、抑えた色味の茶系ベースな衣装に対して、奥菜・伊達は鮮やかなブルーの入った衣装。時代も国も曖昧なまま、でもどうやら現代日本のようでした。ちょっと意外な感じがしたわ。
 夜なのか夜でないのかもわからない、時間の流れが止まったような「ここ」で、会話の裡に少しずつ明らかになる、4人それぞれの「事情」。「今」はどこなのか、「今」はいつなのか、「ここ」はどこで「ここ」はいつなのか。そんなことが、目的語がぼやけているから抽象的に聞こえるセリフの連なりで、語られていく。いつもの阿佐スパの、飛び散る血糊! 狂気と凶器! 日常がある瞬間を境に非日常へと音を立てて変わっていく! 閉塞感と群像劇!みたいな、阿佐スパの阿佐スパ的要素を、すべて封じて紡がれる世界の、静かで優しいこと…。具象で語らないから、それぞれの事情を語っていても、どのセリフも普遍的な言葉として受け取れてしまう。何かね、すごく面白かったです。セリフがあるのに、たくさんあるのに、セリフのないダンスを観ているのと同じ感覚になった。1時間40分の上演時間の間、できるだけ脳味噌のアンテナ広げて、受け取れる要素を受け取って、考えたり要素を並べてみたりするのは後にして。そうしてただ観ていたら、ラストシーンでやたら涙が出ました。予想外だった、でも何か…すごくキた。
 「ここ」は現実世界でないどこか、落ち葉は時間や記憶、ということくらいしか、観ている間にはわかりませんでした。もちろん、それも正解なのかはわかりませんが。正解はきっとあるんだろうけど、でも答えは具体的に示されてはいないから、観た人それぞれで色々、受け取り方は違うはず。でもそういうの、好きなので、好き勝手に受け取らせてもらいました。色々さ、見終わってからもにもに考えるのとか、大好きなので(笑)。
 舞い散る落ち葉が時間の流れを表しているんだろうな、というのは、中山さんが繰り返しかき集めて捨てては撒き散らす枯葉で何となく思いました。舞いながら落下している間だけが、時間が流れている。だから、落ち葉が落ちきってから始まったこのお話の間、時間は止まっているんだと。時の流れの止まった「ここ」に、時の流れからはみ出した・逃げてきた、4人が出会う話なんだと。降り積もった落ち葉は、過去に流れた時間、もしくは記憶のようなもので。側溝に積もった落ち葉は、記憶の堆積、忘れ去られて埋もれた記憶。その中には、懐かしいものが隠れている、母親のエプロンとか。中山さんの再登場がその側溝の落ち葉の中から、というのも、なるほどなー、と見終わったら思いました。
 一切の説明がされないまま、会話のみで進む話の中で、少しずつ見えてくる構図。「昨日の晩」いなくなった猫を探す男は兄で、本を読む男はその弟。弟は「ここ」の出口を知っていて、それでなお「ここ」で本を読んでいる。その本にはきっと、「これまで」が書いてあるんだろうな、と。書かれたのは百年前、でも読んでいる自分にとってその言葉は「今」、というセリフが印象的だった。本を読む弟は、猫がいなくなったのは「もうずっと前」だと云う。つまり、兄の「今」と弟の「今」は違う場所にあり、兄にとって「昨日の晩」のことが弟にとっては「ずっと昔」になるのは、兄の時間はそこで止まっていて、弟の時間はその後も流れているから、かなぁと。ということは、兄の時間は「ずっと昔」で止まっている=死んでいる?と思ったのでした。中山さんの背景は、どうやら動物園に勤めていた男で、他人にナイフを持たせてそれで自分を刺させて死んだ、らしいので、ああそういう場所なんだな、と思ったのが先で、だから兄も死者なのかな、という方向に思ったのね。
 あと、中山・長塚の衣装が枯葉色というか、茶系ベースの渋い色合いだったのに対して、奥菜・伊達の衣装が、すごく目を惹く鮮やかな青がメインになっていて、これは何だろう、と思ったのですが、そこでその2組の差というか、ああ、中山・長塚の枯葉色は「死者」で、奥菜・伊達のブルーは「生者」なのかな、と思うに至ったわけです。そう考えると、「ここ」からの帰り道を探したり、知っていたりするのは奥菜と伊達の二人であり、中山と長塚は「ここ」から出ることには一切の言及をしていない。出る必要がないことを知っているのか、「出る」という概念そのものがないのか。奥菜は伊達に帰り道を聞くし、伊達は帰り道を知っていて奥菜に教える、けどその「帰り道」のドアの先にも、同じような「ここ」が続いてはいた、んだけど。きっと、歩いて帰るとか、そういうところじゃないんだよね、「ここ」は。帰ろうと思えばいつでも帰れるんだろうね。生者の上に時間は流れるからね。あと、時計を持っていて、「時間」の概念があるのも、奥菜・伊達だけだったのも…生きているんだな、と思わせるファクターでした。ただちょっと、エアポケットにはまってしまって不安になってるんだろうな。
 猫を探している兄は、ついにその猫を見つける。けど、捕まえて連れ帰らなくちゃ、という考えはないようで。猫がいたんだ!と喜んで満足して、それで終わりだったので、それもまた…ああ、と。猫を探していたのは、連れて帰る為じゃなくて、記憶の枯葉の中にそれでもちゃんと「いる」ことを、忘れ去られて消えたわけじゃないんだということを、確かめたかったのかな、と。それはきっと、自分を含めいなくなったものたちが、忘れ去られることなどないんだと、信じたかったんじゃないかな、と…。動物園に勤めていた男は、一人で死んで誰からも忘れ去られるのが怖くて、誰かに自分の死を忘れないように刻みつけたくて、他人にナイフを持たせて死んだのだと。少なくとも相手は、彼のことを忘れられないから、と。誰かの記憶に留まりたいから自分を刺させた男と、記憶の中に存在し続けているはずの猫を探す男。忘れ去られたくない死者と、忘れ去られることなどないと信じたい死者、中山と長塚はそういうものなのかな、と思いました。
 兄のことも猫のことも覚えている弟は、手に本を持っている。本は記憶を書き留めて残すもの、かつてそこにあったもの・人・言葉が、本当にあったと証明するもの、なのかな、と思ったのは、冒頭で奥菜が長塚に「確かに云ったわ! 書き留めていないから、証明はできないけど」というセリフと本の存在が繋がって見えたから。
 ラストシーン、散らばる枯葉を1枚1枚拾い上げ、丁寧に皺を伸ばしてじっくり見つめ、それが在るべき場所へと置いていく奥菜。いらないものは白いくずかごへそっと入れて、また1枚を手に取り。時の止まった「ここ」で、これまで自分に流れた時をひとつずつ見つめ直し、読み直して、その意味を考え、然るべき場所へ置き直す。大切な記憶、思い出はベンチのすぐそばに、あまりいらないものはくずかごの底へ、いるかいらないかわからないものはくずかごの近くへ。そうやって、記憶をひとつずつ読み直し、再構築していく作業が、すごく…愛おしいものを愛おしむ、とても優しい作業に見えて、急に涙が出てきました。中山がそれに加わり、やがて長塚も入って、3人で記憶の枯葉をそっと読んでは置き直す、静かな時間。そこへ現れた伊達が、奥菜に一言、「ありがとう」と。そして1枚の青い葉が、ひらりと舞い落ちる。止まっていた時間が流れ出す…そんなラストでした。もうね、葉っぱが1枚落ちてきたのと、それが伊達・奥菜の服と同じ鮮やかなブルーだったので、涙腺決壊。すごい泣けてしまった。悲しいとか、切ないとか、可哀想とか、そういうのじゃなくて、ただただ…優しくて愛おしい、そういう感情の涙だったなぁ。伊達さんの最後の「ありがとう」がわからないんだけど、もしかしたら、伊達さんは時間の止まった「ここ」に、生きたまま閉じ込められていたのかな、なんて今突然思いました。だから古い本を持っていて、読んでいて、知っていて、出口も知っていて、でも出られない。のが、奥菜によって「ここ」に変化がもたらされ、停滞していた彼の時間も動き出した…とか。違うかなー。そういえば、奥菜の衣装が全身青系(鮮やかなブルーのジャケットに薄い水色のシャンタン生地スカート)だったのに対し、伊達さんはズボンは鮮やかなブルーだったけどジャケットとかは…暗色だったよーな。半分アッチで半分コッチな状態だったのかな、なんて。
 とにかく、色々考えてはやけに暖かい気持ちになる、舞台でした。「今」は降り積もった枯葉の上にある。「今」を形作る自分の「これまで」を、記憶たちを、愛おしみながら、先に進もう、という気持ちになりました、とさ。
 難解でも不条理でもないんだよ。色んな風に受け取れるだけなんだよ、きっと。すごくすごく、観に行ってよかったな、と、鼻すすりながら夜空を見上げたりしていたら、お相撲さんのタマゴさん二人と自転車ですれ違いました。そんな両国の夜。
 今後の阿佐スパからも目が離せません。この先どうなっていくのかな。ショッキングでちょいグロでブラックに笑えて悪趣味で怖いやつ、も…まだまだ観たいんだけどな(笑)。

*1:おばあちゃんちの近く

*2:あと車でお台場行く時に見える工場とか!

*3:文字通り!