ミライ派野郎

森山未來とその周辺を果てしなく気持ち悪い感じに追いかける桐の日々散々。

山川冬樹「音響身体論004」ライブ・パフォーマンス+レクチャー@埼玉県立近代美術館(9/18)

 ミュージシャンでアーティストの山川冬樹さんが、埼玉近代美術館で現在開催中の「迫り出す身体」展に関連してレクチャーとパフォーマンスを行うとのことで、久しぶりにホーメイ聴いてきましたよ。

 音響身体論は004と付いている通り、これまで3回行われてきたレクチャー&パフォーマンスのシリーズ…なはずです。今回初めて行けたので過去3回どういう感じだったのか存じ上げないのですが。美術館内の講義室で、小机付きの椅子で、久しぶりに講義っぽいものを拝聴するのも楽しかったです。し、もう入った時点で壇上にいつもの電球たちとか機材いろいろがセッティングされていたので、このとっても…講義室としか云いようがない空間で心臓パフォーマンスも観られちゃうのか…と不思議な気分にもなりました。今まで劇場かライブハウスでしか観てないから。

 まずはレクチャーからスタート、スクリーンに写真を照射しながら講義を聞くスタイルです。美大で講師をされているからか、学生さん?ぽい方も数名、ちゃんとノートを開いていたので、それを見て慌てて書くものを探すダメな大人(笑)。しかもペン見つからなくて結局スマホにメモしてたという…だったらキーボード付きの方持ってくればよかったよね…。

 サブタイトルに「風としてのからだ、檻としてのからだ」と題しての講義は、山川さんがここ数年携わっておられる瀬戸内・大島のハンセン病療養施設「国立療養所大島青松園」での芸術活動を主軸に、身体/肉体と精神/心の相互作用や、身体的・肉体的不自由から解き放たれる精神的自由としての芸術、みたいなお話を、だいぶ時間オーバー気味にいろいろと。テキストはここの文章をプリント配布されました。

”命の砦”に生きた歌人、政石蒙の足跡を辿って | HAPS

 楽しかった、とはなかなか云いづらいけれど、ものすごく有意義なお話をたくさん伺うことができました。ちょっとだけ、「in a silent way」に通じる部分もあるような、あの感覚を個人のものではなく、もう少し広域で共有できる感覚まで押し広げたような。「殻」のからだと「身」のからだの違い、とか、肉体の自由が損なわれた時の人間の「自由」の在り方、とか…先日亡くなられた横町慶子さんとのパフォーマンス「アシンメトリア」の映像*1も交えながら、静かな声音で語られる、苦しみ哀しみの先にある豊かで美しい世界を少しだけ覗き見られるような時間でした。

 病によってもたらされた不自由な肉体と、理不尽に隔離された孤島、二重の檻に閉じ込められた精神世界が紡ぐ芸術の何と豊かなことか。どうしても辛い、負の側に振れた印象を抱きがちだし、実際そこに暮らす方々が背負わされたものは想像を絶する痛みだっただろうし、あってはならぬことがほんの20年くらい前まで実際に起き続けていたことにも衝撃を受けてしまうのだけど、そこで大切に育まれていた文化や芸術それぞれが、とても深いいとおしさを注ぎ込まれていて、ある意味純化された芸術であったり、娯楽であったり、そういうものがそこでそんな風に愛されて、美しく輝いている、ということを知ることができたのは、率直に感動を覚えました。様々な困難や辛苦があってなお、楽しそうに暮らす一端を窺い知れたのも良かったです。「大島はダークツーリズムと云われることもあるけれど、そうは思わない」という山川さんの言葉がとても印象に残っているのは、そこにあった、今もある、文化や芸術が、決してダークでもブラックでもなく、とても自由で清明なものだったからだろうな。音楽も美術も文学も、もちろん常にいたみを伴ってはいるのだけれど、だからこその発展、という部分は外せないのだけれど、それでもそれを愛し育む人々の心持は決して、苦痛や苦悩のみが表わされているわけではないことにはっとしたし、はっとするということはつまり、そういうものだろう、そうあるべきだろうとわたしが勝手に定義していたからで、それはやはり無意識にでも、どこかに病に対する、患者に対する、治癒者に対する、何らかの偏見や差別意識が存在していたからであろう、と思うと暗澹たる気持ちになったりもするのでした…。ラジオドラマとかとても楽しそうだったよ。長島愛生園のハーモニカバンド「青い鳥楽団」の近藤宏一さんが書かれた「ぼくらの風」という詩を、山川さんが静かに読み上げて、わたしはそれをやはり山川さんのツイートで一度目にしていたはずなのに、だから内容は初めて耳目にするものではないはずなのに、何か…衝撃的というかとても鮮烈に感じて…同じものなのに受け止める側の体勢というか下地というかが出来ているかどうかでこうまで印象が違って受け止めるものなのだなぁ、などと自分のことなのに他人事みたいに感じたりして。何だか涙が出そうになりましたよ。

 予定時間をオーバーしてレクチャー終了、少し休憩をはさんでパフォーマンスが始まります。馬頭琴の仲間みたいな2弦の楽器を風のように奏でながら、鳥の声みたいな口笛と、そして溢れ出す声…ああもう第一声で「す、すきーーー」ってなってしまう(笑)。穏やかな話し声と全然違う低くてざらっと響く声がたまらなく好きなんです…ホーメイ倍音がびんびんに聞こえ始める、のか、鳴り始める、のかわからないんだけど、わたしの耳がそれを感知できるタイミングというものがあるのかもしれないのだけど、とにかくあの倍音が聞こえた瞬間のアドレナリン出る感じとか、ほんと…大好きです…。遠くで小鳥が鳴く声がする、広い広いどこまでも見渡せるような草原を、草や動物の耳の先をさわさわと震わせながら風が渡っていくような風景が瞼の裏に浮かぶような。山川さんのパフォーマンスは破壊的で攻撃的でパンキッシュな時もあるのだけど、それはそれで大変カッコよくて大好きなのだけど、この日は*2静かめなパフォーマンスでした。増幅させた心臓の鼓動と連動させた電球を明滅させ*3るおなじみの心臓パフォーマンスもあり、あと備え付けのグランドピアノの中に蛍光灯を仕込んで、政石蒙さん*4の肉声記録の振動と連動させて蛍光灯を明滅させたり、そのピアノを山川さんが奏でたり。政石さんの著述…エッセイのような一編を朗読したり。またこれが胸を打たれる一編で…「花までの距離」という、終戦後のモンゴル抑留中にハンセン病に罹患していることがわかって隔離されていた時の回想録なのだけど、煉瓦を並べて引かれた線から出ることを禁じられた著者が、その線のほんの少し先に咲く花に心を奪われそれに届くように煉瓦を少しだけ動かさせてもらう、という…閉じ込められ自由を奪われた人間が、極度に制限された範囲でしか生きることを許されない中で、どこまでも広いモンゴルの草原を、その魂だけなら自由に飛ぶことができる、そんな一編でした。脳裏に自然に風景が浮かぶ、静謐で平易な文章がとても美しく、思い描かれる風景が雄大で美しければ美しいほど、そのすぐ傍に息づく絶対的な絶望や悲嘆に心の内を絞られるような、それらを越えてなお美しい、世界。

 此処と彼処、現実とその向こうを、ひっくり返す為の精神的活動が、芸術に昇華される。閉じこめられる檻が強固であればあるだけ、芸術は翼になって人を自由に解き放つ。そんなことを感じた帰り道でした。とても良い時間を過ごした…。山川さんは瀬戸内芸術祭秋期に大島での展示に参加されます。行ってみたい…けど難しいなぁ…。瀬戸芸、参加オファーが来てから企画提出までがとても時間なくて、現地見に行ってすぐ出さなくちゃいけなくてそれがガイドブックに掲載されているので、内容が変わりそうとのことでした(笑)。ガイドブック発売早いもんねー。瀬戸芸の総合ディレクターの北川フラムさんが、大島を取り上げることを条件にプロデュースを承諾した、というお話も、聞けてよかったです。

*1:ピューリタンベネットにまた会えるなんて!! 横町さん本当に素敵だった…哀しい…

*2:流石に美術館の講義室だしね

*3:て途中で数秒間鼓動を止め

*4:歌人