ミライ派野郎

森山未來とその周辺を果てしなく気持ち悪い感じに追いかける桐の日々散々。

「DUST」日本公演千秋楽

 夢のような4日間を過ごしてしまい現実に戻ってこられません…やだよーずっとあのふわふわした塵が漂う子供と大人と老人の閉鎖空間でサーカス音楽聴いていたいよー。
 千秋楽公演もとても素敵でした。ほんと、4回なんて少ないなぁマチソワもないしなぁ(笑)。でも、1日1回のゆったりした流れで観るのが似合っているような気もします。ちょうど良いのかもなぁ。あ、映像が残ればちょうど良いです! 金曜日のカメラは収録用じゃないのかなーだったら嬉しいんだけどなー。
 土曜日までの3回は、何となくラストに現れるおうちにプラスの意味を見出していたのだけど、日曜日にはっと気づいたら何か一気に印象が覆ってしまって…おおお、となりました。全然真逆なものに見えてしまった…! 正解がわからない/決まっていない/提示されないからこそ、こうも見える、ああも取れる、ってできるのが醍醐味だなぁ。
 今日1日、ずっと頭の中で回っていたので、聞き取れて覚えてた欠片みたいな単語で探して見つけたこれ。女の子組が床の上で踊ってた時のね。ビング・クロスビーが原曲なのかな。

 これとラストの曲がぐるぐるしてる。あ、第九と運命は大丈夫です(笑)。何ならスコアあるから。


 何となく、最後にみんなでおうちを建てるのが、大きな悲しみに押し流された後の再建とか、新しい希望とか、そういう方向で観てほっこりきゅんとしていたのですが、日曜日に観ていてふと気づいたことが、そこの見え方もがらりと変えてしまって、勝手にあわわわわっとしていました(笑)。前提が変わるとこうも変わるのね…!
 気づいたことというのはそんな大したことじゃないし、それが正解なのかどうかも全然わからないから、気づいたっていうよりはそういう見方をしてみたら、ってくらいなのだけど。
 あまりこれまで、大人/教師かな?が持つ棒に、縋って身体を支えるもの、くらいの意味しか見ていなかったのだけど、女の子のひとりが机の上に腹ばいにされてその棒でお尻を押されたりするところで、あっこれ懲罰っぽいな、と思ったら、あの棒が鞭であったり教鞭であったり、もっと云うと権力みたいなものなのかな、と思えて。子供に対して大人がふるう権力、それで子供を従わせる力、に見えてきた。そう考えたら、途中で未來さんがその棒を受け取ってちょっと偉そうに脚開いて座るのとか、それを渡されたのが未來さんなのももっとさかのぼれば最初から教師に対峙している、というか教師側に近い生徒、ってことで何か学級委員とか日直(笑)とか*1、そういう子なのかもなー、なんて思ったりしてたのです。途中で、生徒全員と大人/教師で、棒を介して押し合いみたいなのをするのも、教師の強権に反抗する子供たちとか、ね。大人が縋って、それがないと立っていられないもの、が権力って思うとすごく…アイロニカルだなぁとニヤニヤしてしまう。権力に縋っていないと立つことすらままならない大人だけど、それもほんの細い棒1本レベルのものなのよね。でも、そんな棒切れ1本でも、振るわれれば痛いし怖いのも事実。
 脚がぐにゃぐにゃの椅子は、これは最初から、何だろう社会基盤とか、地面とか、強固で磐石と信じているものが実はすごく脆弱、っていうことだろうなというのは変わらず。でも棒をそんな風に見てしまうと、本当に大人の情けなさというか、全然ぐにゃぐにゃなのにね、っていうのがすごく強調されて、ほんと、情けないなぁ。
 女の子が流した涙の洪水でみんな流されて、机の道を何本もの棒に縋りながら歩くのも、それまで縋っていたものが如何にひ弱で取るに足りないものかをわからせてしまう。それを全部使い果たして、縋るものがなくなった大人に、情報で武装して身動き取れない老人が駆け寄ろうとして届かないのも、とても象徴的だなぁ。扉の外からもたらされるものは、結局は全て厄災なのかな、という気もしてくる。権力を振りかざす大人は外から入ってくるし、外から入ろうとする大人は扉の隙間から棒を差し入れて辺りを探るようにしてから入るし、扉を開けると大量の紙が降り注ぐし。でも、途中で男子2人は外へ飛び出していくんだよね…外って何なんだろう。戻ってきた男子組すっごい楽しそうだしね(笑)。あっ戻ってきた男子組は大人と対等というか丁々発止にやりあうよね…大人に怯えないし遠慮もないよね…女の子たちはどことなくずっと萎縮しているような感じがするんだけど。外に出た男子たちは何かを得たか知ったか、なのかしら、大人が恐れるに足るものじゃないってことを。でもそこを男女で分けるのは何だか釈然としないので保留。
 で、紙が降り注いだ後に扉の隙間から入ってくるのか、未來が手繰り寄せるのか、な連なった棒を、最初は何も思わずに観ていたのだけど、それが大人が縋る権力と同じ材質で出来ているのが気になって、…ってことはあの連なってる棒もそういう、何らかの権威とか示威的な何かなの?と思ったら、昨日までとてもハートウォーミングな気持ちで見ていたおうちが、途端に…白々しくて薄ら寒いものに見えてしまって、自分ですごいびっくりしたのです。だっておうち、スッカスカで不恰好で歪んでて、しかもその天井をやっぱり棒で支えるのは情報で武装して身動き取れない老人で、その上千秋楽の時はその老人が天井を支えてる棒が何かぐらぐらぷるぷるしてて危なっかしくて、こんな貧弱でおんぼろなおうちないわーとなってしまった(笑)。そうしたら、そのおうちのなかに一旦全員入るけど、老人がよろよろ支えるそれを見上げて、大人と子供はそこを出て行く。ああ、脆弱で形骸化した権威でできたおうちを、彼らは捨てたんだ、そして権力の棒切れじゃなくて自分たちの手をつないで、新しい世界を作るんだ。大人の足ももうぐにゃぐにゃじゃないし、自分を支えるのは棒切れじゃなく隣にいる誰かで、隣の誰かを支えるのも棒切れじゃなくて自分。ぐにゃぐにゃじゃない足元には情報の紙屑が積もってて歩きやすくはないけれど、でも膝はもう萎えない。そうやって、新しい別の何かを形作って、くるくる回り続けるのは、それは不安も恐れもあるけれど、それでもその先にはきっと明るい何かが見えるはず。…なんて風に見えてしまって、だから結局、最終的にはほっこりきゅん、なんだけど(笑)。前日までと見え方が全然違って、すごくびっくりしたし、面白い体験をした回になりました。
 正解はわからないので、もしまた観る機会があったら、それはそれで全く違うストーリーを見つけられるかもしれないし、抽象的なものってそこが面白いところだよね。

*1:そういう制度がイスラエルの学校にあるのか知らないけど。監督生とか