ミライ派野郎

森山未來とその周辺を果てしなく気持ち悪い感じに追いかける桐の日々散々。

「金閣寺」@赤坂ACTシアター(4/12昼)

 初演→NY公演→凱旋公演、からのメインキャストを一新して再々演、な今回の金閣寺。わたしは凱旋公演をやっとこさ観に行けたので、今回で2回目です。個人的にお目当ては、金閣寺役…というか金閣の屋根の上の鳳凰様役というか、でも主人公にとっては金閣寺そのもの役、な山川冬樹さんですが、初演の森田くん・大東くん・高岡くんが素晴らしかったので、今回の新キャストがどんな感じなのかも楽しみでした。特に主演の柳楽くんが、どんな溝口になるのか…森田くんの印象がとても強かったから余計に想像つかなくて!


 前回は末席のお高見見物でしたが、今回はちゃんと(?)S席確保。真ん中列のセンターで大変見易く、恐らく見落としていたであろう記憶にないアレコレがちゃんと見えました。たぶん。見えてないのかなかったのかも判断できないけど(笑)。出演者がふらりと、私服みたいな恰好で舞台上を行き来し、端に座り、手にした「金閣寺」小説の冒頭を順に読んでいく、という始まり方も前回観劇時と同じだったので、演出の大きな変更とかはなさそうな雰囲気。たぶん。正直、細かいところは覚えてないです…ので、恐らく。椅子や舞台端や後ろの机にばらばらに座る出演者の中を、ただひとり山川さんだけが、ふらりと歩きながら、その時々で溝口の述懐を読む出演者の後ろに立ったり、肩に触れたり、後ろから覗きこむようにしたり、その時点での山川さんはまだ私服というか、Tシャツにブラックジーンズみたいな恰好なので、全然鳳凰様ではないはずなのだけど、でもそこから既にデモニックな雰囲気を漂わせ振り撒いて…不吉な影がよぎっていくように、その場を支配していましたよ…あの低くて美しい声が三島の日本語を読む、その音も合わさって、開幕から早速鳥肌。独特の導入部に、会場内が若干戸惑い気味の空気になったところから、一気に舞台・金閣寺の世界が開けて行くのがとても心地よかった…。
 作品自体は前回公演を観ているし、演出も大幅に変更されたところは見当たらなかったというか気づかなかったけれど、キャストが変わることによってもたらされる変化というか、こんなにまで印象が変わるのか!という驚きを改めて感じさせられた今回でした。柳楽くんの溝口、すっごく良かった…! 前回の森田剛くんがとても良くて、あと舞台で森田くん観るのが「IZO」以来だったし、小柄な体をさらに縮めるようにして、ちいちゃく固くこわばらせるような可哀想さがとてもハマっていたのだけど、柳楽くんは、大柄な体格を持て余すように、申し訳なさそうに隠そうとして、でも大柄、という。体格の違いから来る視覚的な差って大きいものだな、というのをまず感じた。何だか、前との対比の話ばかりになってしまうのだけれど、今回の「金閣寺」はものすごく生々しいというか、体温や体臭が伝わってくるような、そういうエロチシズムがより濃厚になっていた印象でした。それは恐らく、柳楽くんの溝口が、より泥臭いセンシュアルさを前面に出している、のか、柳楽くん自身の持つそれがにじみ出ている、のか。石ころみたいに無機質めいた、自分の有機的な存在感を極力消すことによって周囲からの異質さを薄めようとしているような、小さく、硬くなりながら、その堅さで摩擦が大きくなっていくような森田くんの溝口に対し、柳楽くんの溝口は、すごく生々しい存在感だった。匂いがあるというか、匂いがする。恵まれた体格を持て余すように小さくまとめて、それでも隠しようがない異質さの匂いに自分では気づかず、何故自分が異質なのか理解できなくて、その不条理に怒りを抱きながら、それでもどうしたらいいのかわからなくそこに居るしかない溝口。いなくなりたい溝口と、どうしたらいいのかわからない溝口。柳楽くんの方が、内包している怒りや不条理感、そういうものが積み重なった負のパワーの内圧が高い印象だったので、米兵が連れた女に対して暴力が発露する場面が、すごく自然な流れに見えたのも面白かった。森田くんの時は意外さが勝っていた気がする…。
 一番、違いを感じたのは、ラストのセリフへのアプローチでした。燃え落ちる金閣寺を見届けた後、煙草に火を点けて一服してから、「生きよう」と呟いて舞台から飛び降り、客席の隅に座る、という流れは変わっていないのだけれど、「生きよう」の云い方が! 全く違ってた!! 森田くんが、「生きよ(っと)」くらいの、軽さというか空虚な、死ぬ意志と一緒に生きる意志も捨てたように云っていた*1のを、柳楽くんは「…生きよ、」と、へらりと笑うような表情で云っていて…空っぽになった森田くんと、一線越えて向こう側に行っちゃった柳楽くん、のように見えました。へらっと笑って云うの、鮮烈だった…!
 前回観た時に、舞台を降りて客席に座る溝口に、生きようといいつつも実質的な「死」を感じたのだけど、行為としては全く同じだったのに若干印象が違っていたのも面白かった。冒頭の導入部、舞台上の役者たちがみんな、客席に対峙するように座っていたのと、まったく逆の位置に在るのが「生きる」、なのだとするなら、客席の観客は「生きて」いる、舞台上の役者たちは「生きて」いない、ってことになるのかな、と。溝口が生きようと思った上でこちら側に来たのなら、向こう側に留まることは溝口にとっては死を意味すると考えられないか知らん。もしくは、死ぬことを止めることによって、溝口の、「溝口としての生」は終わったんじゃないか、とか。あそこで死ぬことは溝口を見ているととても自然な流れに思えるのに、それを止めるのは、それを止めなかった三島本人*2との対峙でもあるんじゃないか、とか。そうやって、一線を越えて生きようと思った溝口の「生」は果たして「生」なのかどうか…って、結局前回もそういうぐるぐるに行き当たっていたような気がするー。あんまり印象変わってないのかなもしかしたら…。
 鶴川と柏木も新キャストでした。うーん、こちらは個人的な好みですが、初演キャストの方が、ええと、好みだなぁ(笑)。今回の水田くん鶴川は蔭を仄かに感じさせる仕上がりで、確か前回の大東くんを見て、「少し裏側がある風にした方が効果的なんじゃない?」みたいな感想を持った気がするんだけど、今回のを観た感想としては、描かれ方があくまで「溝口から見た鶴川という男」だから、溝口は鶴川の隠された部分を知らなかったわけで、ならばその辺は一切見せない、ただひたすらに真っ直ぐ美しく明朗な男、でいいんじゃないかなぁと、全く逆の感想になってしまいましたとさ。水橋さんの柏木はアクが強い感じ(笑)。良かったけど青臭さがちょっと足りないような…何と云うか、百戦錬磨過ぎる気がしてしまった(笑)。し、しかたないですよね大人ですものね…!
 そして愛しの金閣様…じゃなくて鳳凰様ですが。やはりとても禍々しく美しく荘厳で凶悪で暴力的で慈愛に満ちて暖かく冷酷でこの世のものではなかった…。前回気づかなかったのか見えなかったのか、溝口のいる場所から金閣寺が見える場面ではかならず、舞台の上の方とか袖の上の窓の外とかにいらっしゃるんですねー。陽光の下で鳥のさえずりと共に輝く金閣寺、とか、夕暮れに暮鐘響く中、茜色に染まる金閣寺、とか、そんな情景が見えてくるような、そんな佇まいでどこかにいらっしゃる。そして暮鐘(的な)とか小鳥のさえずりを発しているのが山川さん、という…ぴよぴよ可愛かったです…。厳かに凛とした美しい声音も、ラストの崩落の絶叫咆哮も、震えるくらい素敵で呼吸を忘れるくらい取り込まれてしまうのだけど、1幕ラストの音声がね…耳が割れんばかりの異形の声がね…好きです。溝口を支配する、むしろ溝口に襲いかかるようなあの音、たまらない。正直、羨ましかったですよ溝口くん…。
 宮本亜門さんと水田航生くんにプロデューサーさん、のアフタートークもありました。若い水田くん他今回のキャストたちが一生懸命悩んで、読み込んで、考えて、相談して、想像して、鶴川という役を作り上げていった一端が垣間見えて、微笑ましく可愛らしかったです。3人の自主練、面白そうだったなぁ(笑)。

*1:という印象ですわたしの中では

*2:生きようと思わなかった溝口が三島本人なんじゃないかなって