ミライ派野郎

森山未來とその周辺を果てしなく気持ち悪い感じに追いかける桐の日々散々。

「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」9/16

 大阪2日目、マチネのみ公演。昨日の夜公演がまた最高値更新だったので、どうなっちゃうの今後…って思ってたら、軽々とまた更新されてしまいました。もう、「最高」って表現は無意味なのね。いつでも次の瞬間に、一瞬前の最高値はクリアされてしまうのね。この先どうなるのか、本当に楽しみで、すごく怖いです。わたしの身が耐えられるかどうか(笑)。
 15日ソワレ後に、お友達とお茶しながら話していて、初めてヘドのトミーに対する、何というか、無償の愛情というか、個人的にあんな童○臭くて中二病もりもりでイテテな坊や、いくら音楽の泉が溢れていても、あのヘド姐様の片割れには相応しくないわ!とか思っていたのですが、そういう問題じゃなくて、本当に…ただ、愛してたんだな、っていうのが、やっと…実感を伴って染み込んできて、そうなったらもうWickedのヘドから…いや、The Origin of Loveから、じわじわ来ちゃって…大変でした。何もね、見返りとかなくね、彼がどういう子なのかとかも関係なくね、ただただ好きだったんだな…って。だから、Wickedのヘドがあんなぬ優しいんだね…。釣り合わないから片割れがトミーなのはちょっとさー、とか思っててごめんなさい…。
 そんなことから、「片割れとひとつになる」ってどういうことなのか、を改めてもにゃもにゃ考えていて、正解かどうかはひとまず置いておいて、とりあえず自分の中でこの辺に落とし込んでおこうかな、という着地点を見つけたので、備忘としてメモっておこうかと。日替わりも間に合ったら置いておきます。


 映画版のラストをお友達が、絶対的な孤独感、と表していて。片割れは間違いなくトミーなんだけど、でも再びひとつになることはないラストで、その絶対的な孤独感、寂寥感がたまらない!と云っていて。でも、大根/森山版*1のラストは、ある種のハッピーエンド、すごく前向きな印象を受ける終わり方で、そこが一番違ってたけど、今回のヘドウィグはこれでいいんだ、こうあるべきなんだ、っていうことを話していまして。やっぱり、盛り込んだ題材的にもそこは、絶望で終わらせるわけにはいかないよね、とわたしもすごく思うので、わたしもとても前向きな印象であの後ろ姿を見送っています。何云ってるのかわからなくなってきましたよすみません。とにかく、人間の持つ絶対的な渇望と、それを得られない寂寥、そういうものは受けない終わり方だよね、でもそれでいい、そこがいい、と。何というか、ヘドの云う「片割れ探しの旅」って、自らの裡に片割れ*2はいて、それに気づくまでの旅路なんじゃないかな、と、そんなことを思いました。だから、気づいたから、絶望的な寂寥感から脱することが出来てる。その先にはきっと、もしかしたら苦痛に満ちてはいるかも知れないけど、でも確かに光ある、新しい世界…壁の向こうの世界、が広がっているはず、と。
 そのことを知っていて、それにヘドを気づかせ、導くのが今回のイツァークで。ひとりで完結している、ある種の「完全体」であるイツァークには、そもそも片割れを探す、という場所からは初めから超越していて、だからヘドの迷いや苦悩を、一段高い場所から見ていたんじゃないかな、と。ねぇ秘密を教えてあげる、とか、ぼくが案内してあげる、とかは、そういう、完全体であるからこその言葉だよね。ヘドはきっと、そのことには気づいていなかったと思うんだけどね。
 ただ、ヘドの云う「イツァークは心が綺麗すぎる」ていう言葉は、イツァークにとってはひとつの束縛というか、無垢であるべき自分、を押し付けられているんだろうな、と思います。イツァークは無垢も闇も抱えてるけど、ヘドはイツァークに闇の部分を認めていないような。で、闇の部分は全部自分が背負ってる、気でいるんじゃないかしらね。ヘドの中にも真っ白な部分はあって、でもそれは分厚く塗り込められたメイクや衣装の内側に厳重に隠されていてヘド自身にも見えなくなっちゃってる。そこを引きずり出されるのはきっと、あいでんてってーが崩壊するくらい、ヘドにとっては怖いこと、だったんじゃないかな…。だからイツァークにそこに触れられて、あそこまでコワレたんじゃないかな…。
 離ればなれの片割れと「ひとつになる」ことを、セックスだと古い歌は伝えていて、わたしもずっとそういうことなんだろうなと、だから壁から出るために身に残った1インチが、トミーとひとつになる時の障壁になる、その皮肉に、ひどいよ!!!となっていたのですが、でもひとつに戻る=セックス、という図式は、そもそも冒頭でヘド自身が疑問を呈してるんだよね。「本当に、そんなことで元に戻れるの? パパがわたしにしようとしたようなことで?」って。
 で、じゃあ「ひとつになる」ってどういうことだろう、と考えていて。ミッドナイトレディオの前で、ひとつの肉体にヘドウィグとトミーの精神が融合して混在しているように見えたことから、「自分の中に片割れはある」んじゃないか、って思った時に*3、自分の中にいる「片割れ」って、誰かと関わりを持ったり、誰かを想ったり愛したり、そういうことをした時に、それによって自分の内側にもたらされる変化や影響とか、そういうものなんじゃないかな、と。ふと思ってしまったのです。多分それは、未來さんが良く云う、出会いの奇跡、みたいなものが頭にあるから、だと思うんだけど(笑)。でも、今回のヘドが森山未來自身の持つ要素・因子を多大に受け継いでいるであろうことを鑑みて、そーんなに的外れなことでもないんじゃないかなー、とも思うのです(笑)。誰かと出会い、触れ合い、誰かを想い、時には愛して、それによって自分の中身が少しだけ変わ
る、作り変えられる、その積み重ねによって「今」の自分が形成されている。その誰かに出会わなければ、今の自分は存在しない。誰かに触れて、自分の裡に変化がもたらされ、自分自身と誰かのもたらす変化が混ざり合う。それがヘドの云う「核融合」なのかな、と。そんなことを考えていたら、1インチの壁で肉体的には隔たれたヘドとトミーだって、何の問題もなくひとつに戻れる、戻れているじゃないか、と。だから、トミーに捨てられたヘドがぼろぼろになる姿を見ながら、そんなに打ちのめされることなんてないのに、あなたは大丈夫なのに、トミーだってそのことに最後気づく*4のに、と、すごく思うのです。なので、ミッドナイトレディオのヘドは、完全体として立っていると思うのです。まぁ、妄想ですが!
 ラスト、一度はヘドの手を握ったイツァークが、その手を離し、先に姿を消すのも、初めから「完全体」の存在である自分の役目を終えて、ヘドにひとりで歩き出すことを示し、イツァーク自身もヘドから解放される、ということなのかな、と思いました。先を示すけど、ここから先を歩いて行くのは自分自身。もう、ひとりで歩いていけるでしょう、って云ってるように感じる。だからもう、手を引いて一緒に階段を昇ることはしない。この先のヘドウィグは、たとえ肉体的に壁にぶつかって倒れても、何度でも生まれ変わって新しい、少しだけ変化した、ヘドウィグとして立ち上がり、まっすぐに前を見つめることがきっと、できる。そんな姿が、今傷ついて倒れ掛けている日本の姿にも、重ねて見ることが出来る気もして、何かもう、冷静でいられないくらい揺さぶられてしまった、16日ソワレでした。
 日替わり間にあわなかった!!

*1:と敢えて呼ばせて頂く

*2:トミー、もしくはトミーに限らず、これまでヘドの上を「通り過ぎ ていった」ひとたち

*3:すいません、妄想の上に妄想を展開させるとかほんと妄想でしかないんだけど

*4:「ありがとう、ヘドウィグ」の言葉が出たこと自体が、トミーの中にヘドによって変化がもたらされ、混ざり合った証だと思うの