ミライ派野郎

森山未來とその周辺を果てしなく気持ち悪い感じに追いかける桐の日々散々。

プレミアム10

 どんなに想像しても、どれだけニュースを見ても、いくら話を聞いても、それを実際に体験した人の気持ちは、痛みは、恐怖は、傷は、わからない。わかりっこない、だって私はテレビの前に座っていたのだから。
 朝起きて、普段点いていないテレビが点いているのを不思議に思ったことを覚えている。そこに映る光景を、どこの国だろうと思ったことを覚えている。同じ日本で今、起きている光景だとわかって、言葉を失ったけど、それでも朝ご飯は食べたし学校には遅刻せずに行ったし授業も普通に受けた。それが私にとっての13年前の1月17日であり、「阪神淡路大震災」である。当時ヘリ会社に勤めていた父が、「偉いことになった」と呟きながらいつもより早く家を出ていった。NTTの緊急と、報道と、物資輸送で、機体は全部八尾空港へ飛び、父が通っていたヘリポートはしばらく空になった、そんな話を後で聞いた。
 帰宅して、誰もいない部屋でずっとテレビを見ていた。倒壊した家屋から、小さな毛布のかたまりが担ぎ出されるのを見た。毛布の端から、裸足の子供の足がのぞいていた。毛布を抱き取った母親らしい女性が、俯いた顔を上げることなく、傍に止まっていた車に乗り込んだ。誰も、何も云わなかった。それからしばらくして、同じような光景がまた、テレビで流れた。倒壊した家屋から、小さな毛布のかたまりが担ぎ出された。毛布の端から、裸足の子供の足がのぞいていた。父親らしい男性に抱き取られ、歓声が上がった。「生きてるぞ」「よくがんばった」そんな声が聞こえてきた。その映像はその後、ニュースで何度も流れたけれど、最初に目にした映像はその後、二度と見ることはなかった。偶然目にした、とてもよく似た、とても違う、忘れられない二つの光景。今まで誰にも話したことはなく、ただ、目にしたものを忘れてはいけないような気がして、ノートに書き殴ったのを覚えている。
 神戸に住んでいて被災した男の子と、少し話をしたことがある。彼の家は大丈夫だったけど、彼の友達には家が全壊した子がいる、と云っていた。倒壊は免れたけどその後の生活はめちゃくちゃで、彼は一時的に大阪の親戚の家に移ったそうだ。電車で大阪に着いたら、街はいつもと少しも変わりなく、みんな笑って普通に歩いていて、神戸はあんなになってるのに、ほんの数十分電車に乗っただけの大阪が、どうしてこんなに違うんだと、正直怒りを覚えたと彼は云っていた。大阪が悪いんじゃないってわかってるんだけど、と笑った。私は何も云えなかった。
 震災の後に生まれた小学生が、正直よくわからない、と云った。私も彼女と同じだ。どんなに説明されても、どんだけ想像してみても、わかるはずがない、わかれるはずがない。でも、それでいい、と彼は云った。その言葉には、わかるはずない、所詮わかるわけがない、そんな諦念に似た思いが、含まれていないとは云えないのかもしれない。それでも、他でもない彼に、彼自身の選んだ言葉で、それはそれでいい、そう云ってもらえて、変な感想だけど、救われた。
 山古志村で牛を運んだヘリは、私が知ってる機体でした。