ミライ派野郎

森山未來とその周辺を果てしなく気持ち悪い感じに追いかける桐の日々散々。

ヤン・ファーブル「わたしは血〜Je suis sang」@さいたま芸術劇場

 蜷川作品上演でお馴染み、もしくは「役者魂!」に於けるリア王上演の舞台ともなった、さいたま芸術劇場で見てきました。このホールは好きです。が場所柄なのか、駅前にも劇場付近にも「ちょっとお茶」できるところがなくてね…。サイゼリアしかないんだよ(笑)。せめてドトールとかマクドナルドとかそんなんでもいいからさー。知らないだけかなぁ。
 それはともかく、何か妙に心惹かれた「わたしは血」。コレは何となく見た方がいい気がする、見ないとちょっと後悔しそうな気がする、と勢いでチケット取ってしまいましたが、うん。ハズさなかった! 面白かった!! 予想というか想像とはちょっと違ってた…というか想像を遙かに超えてアレだったけどそれもまた面白かった!! ヤン・ファーブルおかしい、絶対おかしい!*1 *2
 サイトで動画を見たり、ポスター(写真の)やチラシを見たり、あとテレビでちらりと流れた映像を見て、わぁ甲冑とドレスでコンテンポラリーダンスポエトリーリーディング+ノイズ系! 好きそう好みそう!!と思って食いついたわけですが、…実際見てわかりました。テレビだの動画だの写真だの、で流せるのは甲冑ドレスくらいしかなかった、んですね(笑)。放送しても大丈夫なところを抜き出したら甲冑ばかりになってしまった、んですね!!
 えー。びっくりするくらい裸でした。裸・ダンスでした。
 甲冑ガシャガシャ云わせながらダンスとか、すんげぇ好きなんですけどー!と思ったら、甲冑ガシャガシャで踊るのは冒頭のみでした。そこから先はもう。でも甲冑群舞は圧巻で、充分ヒャー!となれたので満足です。甲冑的にも。
 (あ、最近気が付いたというか気づかされたのですが、どうやら甲冑が好きみたいです。甲冑というか金属というか。本来動かない堅いものがガチャガチャ云いながらもスムーズに動くのとか好きみたいです。だから「オレステス」の吉田鋼太郎さんが横通った時あんなにフワアァア!ってなったのか!という話。)
 裸はともかくというか、裸以外は、というか、コンテンポラリーでフランス語のテキストリーディングでノイジー、というのはドンピシャ。テキストは字幕がちゃんと出て、親切でよかったのですが、字幕ものはいつも思うけど字幕読んでると舞台見られないし、舞台見てると何云ってるのかあんまりわかんないし、このジレンマどうしてくれよう。繰り返し出てくるフレーズとか、簡単なところはまぁわかるんですが、あっ何か違うこと云ってる!と思って慌てて字幕見るともう流れ終わってたり、字幕必死に読んじゃうと舞台上で何が起こってるかわからなかったり。ただでさえ、広い舞台上のあちらこちらそこら中でてんでバラバラな面白そうなことみんなしてるんだもん、誰か追ってると他が見られなくて悔しいのに。大変です。
 テキスト…というかテーマというか、「わたしは血」は、とても哲学的で抽象的で象徴的で、やってること・見せていることの生々しさとは対象に、非常に観念的なテーマでした。そう、正に「わたしは血」。血がわたし。
 キリスト生誕から2007年経って、未だに人は身体という枠組のなかに閉じこもり、乾いた外側と湿った内側を保ちながら生きている。わたしというものを形作る最大にして唯一な要素は血、皮膚も臓器も脳さえも、血によって生かされている。血にまみれて生まれ、血を流して交わり、血を流して命を繋ぎ、血を流して死ぬのが人の一生。人生に於いて確実なのはただ2点、人は死ぬ、そして人は超越できる。鎧を脱ぎ捨て、服を捨て、皮膚も身体も切り裂いて、己である血を外界に開放する時、未だ中世人のままである人間は、2007年間変えることのできなかったそれを超越できる。傷口から流れ出た血が、そこに含んだ内側の酸素と、外側にある大気中の酸素を混ぜ合わせる。私は血。
 …と、大変不穏な感じになりましたが、何かそんな感じのテキストでした。すんごいうろ覚えですが。テキスト売ってたけど買わなかったので本当にうろ覚えです。
 で、そんなテキストを時に囁き時に朗々と読み上げ時に絶叫しながら、ダンサー達は甲冑を脱ぎ捨て、純白のウェディングドレスの中の下着を血で汚し、ドレスを脱ぎ捨て、下着もいつの間にか脱ぎ捨て、全裸に血のようなワインを浴びて、血まみれの手足を振り乱し、濡れた床の上を這い回り転げ回り、何ものにも束縛されない身体を自由に解き放ち、中世のグロテスクさ滑稽さと何も変わっていない現代をあざ笑い、揶揄し、そして見ている私は自分がどうして服着て座ってるんだろうと微妙な違和感を覚えるに至ったのでありました。いや脱がないけど(笑)。何かね、最初は当然びっくりしたんですが、だんだんね。見てるうちにね。アッチの方が全然自然なんじゃないかと思わされてきてしまうのです。ああ不自由だなぁって。
 最後、舞台上である時は手術台に、ある時は舞台上の舞台に、ある時はストレッチャーに、なっていた鉄のテーブルが、ひとつずつ縦に立てられていき、舞台上に並んで立てられたそれらは強固な鉄の壁になり、全裸のダンサー達を全てその後ろへ隠しました。ただ声のみが「Je suis sang*3」を繰り返し、そして壁の下から夥しい血が流れ出す。もう、「ラストショウ」のお父さんなんてもんじゃありません。だくだく。波打ちながらどくどく。壁の下から床の上を、僅かに泡立ちながら。何か…生臭い匂いが感じられそうな程の…生々しさというか。不快感ギリギリの格好良さ、美しさというか。鋼鉄の壁の下から血。全てを開放することによって、より強固な壁を得られるのか。それとも、いくら血を流して解き放っても、己を守る鎧は剥がせない、それが人というものなのか。解釈むずかしーい、けど色々受け取れるのもまた良いです。ぐねぐね考えるの好きだし(笑)。
 もの凄く不愉快に感じる人も多々いることと思われる舞台であることは、確かです。ギリギリのラインでアウトなんじゃないかと私も思うし(笑)。あと、男女で感じ方が違うだろうなーとも思った。ヤン・ファーブルが男性、というのもまた興味深い。でも、凄かった。私個人は見てよかった、何か凄いモン見た、と満足感と妙な高揚感でワキワキしながら帰りました。ああ格好良かった。
 それにしても、天才(もしくは変態)の考えることは良くわかりませんな。

*1:頭が

*2:褒め言葉です

*3:私は血